回 /開催日 /本 /著者 /店 /幹事
513/27/26/『満願』/米澤穂信/ /末信みゆき
512/30/5/26/『マカン・マラン 二十三時の夜食カフェ』/古内一絵 /ホテルモントレ福岡3F「サンミケーレ」/渡邊稔子
* ドラァグクイーン、シャールさんの存在感、夜食として提供される身体と心が温まるお食事の数々に私の心も癒された。各章ごとに描かれるのは普段の生活に疲れ切った人たち。彼らは心密かに周りとの人間関係に違和感を感じながらこの場所に集まっている。
会社や学校などで彼らが抱えている焦燥感や不安の積み重ねをリアルに感じられて、その辛さを共感できるからこそ、「マカン・マラン」というお店の存在感が浮き出てくる。
古内一絵という小説家は、日常生活での何気ない会話や仕草などに潜む差別意識や格差の構図を繊細に汲み取って見せてくれている。生活の中で「えっ」と思っても通り過ぎてしまいがちなこと。それを思い返して立ち止まって見せてくれる。読み続けたい本だと思った。 (N. N.)
* 生きていくことの難しい人物が或る夜食カフェで心のこもった素朴な料理に癒されるという話で、特別に付け加えることも無い。ただ、何事によらず自力で乗り越えることのできない現代人の弱さが気になるこの頃である。離婚して60歳近くなった今、マッチングアプリに登録して相手を見つけようとする知人もいれば、家庭内暴力を即座にChatGPTに相談し、アドバイスに従って行動した結果、目の前で父親が逮捕されて驚く高校生まで、何か自らの力で事態を打開しようとしない寂しさを感じるこの頃である。どう生きようと自由!自由!自由! か??? (M. Y.)
* 食というのは、人によってその価値が異なる。ただ空腹が満たされればよいとも言えるし、誰かと一緒に食べれば、そこにコミュニケーションが生まれる。食材や調理方法に興味を向けると、健康や自然環境、経済など、話題は世界へ広がっていく。
長いこと、自分で作って一人で食べるを繰り返してきた私には、マカン・マラン、いやシャールは憧れだ。時々、ふらりと立ち寄り、シャールの作った夜食をいただく。その非日常感、程よい距離感が心地よい。しかし、現実にそのような店は見つかるわけでもない。普段テキトーに食事を済ませがちであるが、時には自分がシャールになり、自分自身のことを想いながら、食事を供してみようと思った。今の自分を外から見つめることと、ゆっくり夜食を味わうことが、どうやら必要なようだ。 (T. W.)
511/25/4/26/『BUTTER』/柚木麻子/レストランSESSION/千葉敦子
* 最近、イギリスで日本の小説がベストセラーになり話題になっている。その代表が「BUTTER」だったので読んでみたかった作品である。小説に出てくる上質なバターをふんだんに使った料理は間違いなく美味しそう。里佳がその料理を誠実に再現し、美味しさ故に食べ続けた結果、それまでの生活スタイルの縛りや怠惰な食生活から解き放たれ、周りの人との関係に変化が起き始めるところは面白く読めた。バターは誰もが美味しいと思う食品の代表なので、この小説が世界中で読まれているのがわかるような気もした。食材の持つ魅力を文章にしてそれが生活に与える影響まで、食に関する描写力は秀逸だと感じた。
ただ、小説後半から伶子の単独行動があまりにも唐突で、その生い立ちからきている夫婦の問題は私には消化不良であった。また、料理教室に集まる多くの登場人物たちの設定やそのやり取りがどこまで必要だったのかなど、冗長に感じられるところも多々あり、読後は残念に感じた。(N. N.)
* 美味しい食べ物とは、結婚とは、男と女の関係は、親子の関係は?働くことと結婚してよい夫婦関係を築くとは?、etc. etc.ーー余りにもこってりして盛り沢山なご馳走に、食傷してしまう。バターラーメンとかブフ・ブルギニョンを美味しいと思う人もいるだろうが、筍ご飯を喜ぶ人間もいる。要は、「美味しいものの話題や毎日の不安や楽しみについて、私は分かち合いたかった。会話を楽しみたかったの。」という梶井真奈子のセリフに真相があるのではないか。人間生きることの毎日には絶えず何某かの不安が付き纏うもの、その時、話し合える相手がいることで、乗り越えられる。何も七面鳥を囲む大パーティーをする必要も無いだろう。大切なことは会話を楽しむ心構えではないか。 (M. Y.)
510 /流会 / 『木挽町のあだ討ち』 / 永井紗耶子 / 千葉敦子
* 会話にしろ、地の文にしろ、ここまで完璧に滑らかで自然な文体にはそうそう出会えるものでは無いだろう。そこに通底しているのは、戯作者金治が第五幕枡席の場で、「何せ辛さも割り切れなさも人一倍知ってる連中だから、あいつを救ってやりたくて仕方ねえ。そこには、武士も町人もねえ。あるのは情だけだ。」というところの、「情」に貫かれた作品だからだろう。或る辞書は「情」を、「人が本来もっている性質」と定義しているが、日本を含めて世界各地で起こっている憂慮すべき事態は、本来あるべき人間の姿を喪失していると思うと、背筋が寒くなる。 (M. Y.)
509 /22/2/26 /『月の影 影の海』/ 小野 不由美/ 俺のフレンチ博多 /中竹尚子
* ファンタジー作品には二種類があるだろう。一貫して幻想世界だけで成立しているものと、現実と共存しているものである。前者は無条件に空想を楽しめるのに対して、後者では、現実を考えさせられることで、楽しみが半減する。陽子は「剣の見せる幻影」を通して、残してきた父母の様子、彼らの陽子に対する理解の相違を知る。巻末近くで伝えられるクラスメートたちの陽子に対する考え方然り。読者の好みによるだろうが、小生はこのようなありきたりの現実を読まされると興醒めする。もはや時代についてゆけないということか? (M. Y.)
* 幹事としては、今回、keys初めてのライトノベルで少し不安も。ここでY.S.氏からのコメントをまずはご紹介。
「上下巻一気に読みました面白かったです。人は信用できない。でも信じたい。そんなテーマでしたね。王を麒麟が選ぶという仕組み、いいような気がします。」一言メッセージ大歓迎。これからもよろしくお願いします。
さて、私のコメントである。
ファンタジー感満載の展開を予想していたが、むしろ主人公が王になるまでの葛藤が印象的。上巻では、本来は陽子を王として守るはずの「剣」の鞘である「蒼猿」が両親や学校の幻影を見せ、陽子が生きてきた生活の実態を徹底的に暴き自己破壊にまで導いている。巧国での裏切られ続ける環境とも重なり自分以外の何者も信じられなくなる。上巻は貧しい親子から貴重な売り物の水飴をもらい命を救ってもらいながらも彼らさえ遠ざけてしまう。情けない姿を曝け出して終わる。
下巻では、絶命しそうなどん底でようやく自分の素に向き合い始める。十二国の存在やその仕組みがわかってきて一気に物語が進む。ここは爽快。王の資質として何が必要か。それが天命であっても受け入れることの難しさを、作者は描きたかったのであろうか。
ティーンエイジャーが読者層である。等身大の陽子が王になるまでの変身ストーリーがむしろ現実感満載でここに共感を感じているのかもしれない。この十二国はわからないところが多々あり気になってしまい、ついその続きが読みたくなる。中毒性は確かにあるかもしれない。(N. N.)
* 若者が感じやすい「弱い自分」のまま当たり障りなく暮らそうとしている女子高生(陽子)が、ある日突然、妖魔に襲われ、そのまま異世界へと巻き込まれていくという急展開に戸惑いつつ、これがライトノベルかと読み進める。女子高生にはそぐわない壮絶な戦いの場面が続き、絶望的な上巻。度々あらわれ陽子の不安をあおる言葉を放つ蒼猿は陽子そのものというくだりはまだヒーローになり切れない人間臭さか。重々しい気分は下巻冒頭に登場するかわいいネズミに救われる。何もかも、誰も彼もが信じられなくなっていた陽子の心を解きほぐすのが、このネズミ(楽俊)というのも意外だったのだが。とはいえ、こうして女性はますます強くなるのだなと実感した作品であった。(K. H.)
508/24/01/26/『からくり写楽 蔦屋重三郎、最後の賭け 』/野口 卓/アヒル食堂/ 中島久代
[幹事コメント]
* 2026年新年のKeysは恒例の「抱負を語る」会としました。
・実現できなかった還暦の抱負を再び「家族や周囲への配慮をしすぎず、自分のための時間を使おう」
・現在実行中の生活をさらに豊かに「自然体で雪・野菜・自然と触れ合い、(野うさぎの足跡を見つけた時のように)心にいつもみずみずしい感動を」
・声や喉を使わない生活のダメージを避けることを第一に「Keysランチ会に全回出席を目指し、よくしゃべろう」
・退職後の活動で出あった人々の、それぞれの素晴らしさに感銘を受けて「人との出会いを楽しもう」
・ネズミのように走り回って生きてきた30年近くの歳月「ネズミを脱却して人へ変身」
今年最後の回では抱負の実現度を語っていただく趣向です。(H. N.)
* 謎の絵師、東洲斎写楽の存在が様々な物語を生み出しているのが面白い。野口卓氏は徳島出身であり、同時代の徳島藩10代藩主に着目して物語を創作しているが、この藩主が解体新書の挿絵画家で、平賀源内に直接蘭画を学んだ小田野直武を重臣に持つ佐竹家の出自であることも相まって、この設定は私には説得力があった。歴史小説は、事実と称される物事を適切に捉えてインスピレーションを膨らませながら、作者が自由自在に物語を紡いでいく。読者である私は、歴史上の一つの事実としてだけ捉えていた事柄を、それに関わる多くの人々を想像しながら、重曹的に捉え直すことができ存分に楽しむことができる。やはり歴史小説は面白い。(N. N.)
* 本書の解説によると、「現在では、阿波国徳島藩のお抱え能役者・斎藤十郎兵衛が写楽ということで、ほぼ確定している」そうである。作者の野口卓も十郎兵衛の存在は十分認識していて、作品中八箇所にわたって言及されるが、蔦重の狙いは彼を「写楽の隠れ蓑」に仕立てることにあった。蔦重の東洲斎写楽こと先代の徳島藩主蜂須賀重喜が「絵だけではない。書も必須だ。謡に連歌、武術では槍、弓、馬、剣などあれこれやったな。なにしろ四男坊だ。なにかができれば、養子の口がかかるかもしれんと、親父は本気半分、冗談半分に、いやかなり真剣に考えておったようだ」と。続けて、「いや、大名の子はだれも絵はやらされたようだ。もっともよほど好きか、能力に恵まれていなければ長続きはしないがな」という下りがある。写楽の存在を、近松門左衛門の芸術論にいう虚実皮膜(芸術の真実が潜む事実と虚構の微妙な接点)にあると設定した作者の力量は見事であった。 (M. Y.)
* Keys第67回で読んだ『写楽まぼろし』(杉本章子作)中の写楽は蔦屋重三郎に才能を見出された無名の絵師であった。本作中の写楽は徳島藩主蜂須賀重喜という。江戸時代から現代に至るまで謎につつまれ様々な物語が生まれてきた「写楽」。そのプロデューサーである蔦重はまぼろしではなく、あの手この手の策を施す奔走ぶりが何とも楽しい作品であった。(K. H.)










