2025年度読書会記録

回 /開催日 /本 /著者 /店 /幹事

507/ 27/12/25 /『新版 思考の整理学 』/ 外山滋比古/ 流会/ 中島久代
* 12月のランチ会は残念ながら成立しませんでしたので、中島自宅での夕食に切り替えて、2人でKeys成立といたしました。
12月の報告に替えて、11月Keys(勝野さん幹事 おだしと日本酒の店 かなえ(鼎) )での宿題を回答します。
宿題:どこまでも澄んだおだしの「たこ焼き入りおでん」や「だし入り日本酒」に歓声を上げながら、盃に日本酒冷やを注ぐと、盃の中のグレーの模様は、満開の桜に、赤が燃える紅葉に、目の覚める青空に変化。どんな技術でこの魔法があるのかを調べてください。
回答:Keysで知った盃は「丸も高木陶器」(岐阜県多治見市市之倉)の「冷感平盃」でした。美濃焼の町市之倉は盃の町。この製造所は1887年創業、伝統を守りつつサーモクロミズム(thermochromism)現象を利用した器を作っています。サーモクロミズムは温度に反応して色が変化する現象で、ロイコ染料(無色〜有色を切り替えられる色素)で絵付けすることによって、約17℃以下で発色するように設計されている、とのことです。(H. N.)
* AIの性能に驚きを隠せない今、人としての立ち位置として、「考える」ことが重要なのは腑に落ちる。まずはその「考える」という作業を、普段から自分がやれているかと不安になった。ネットからの情報が溢れ、その収集と整理に時間を取られ過ぎているのではないか。知ることに満足していないか。何事も考えないと先に進まないのは、これまでの経験で痛いほど良くわかる。論文を書いてはないが、文章を書く機会はいまだに多い。自分の文章に責任を持つためにも、思考や知識の整理に、外山先生の言われる「化学的変化の起こるメタ思考」に近づけるようにと、普段から意識していきたい。(N. N.)
* 第6章「既知・未知」の項に「かつては、漢文の素読ということをした。ただ、音声化だけを教えて、意味には触れない。」という一節が出てくる。そしてこの一連の論考は、「それが言語教育にとどまらず、人間教育、知的訓練とほとんど等価なものでありえたことを、現代の人間は改めて考えてみるべきであろう。」と結論付けられる。私は直ちに田舎の高校一年の時の漢文の授業を思い出した。地元の神主さんが非常勤の先生で、杜甫の『春望』を「國破山河在(国破れて山河在り)/城春草木深(城春にして草木深し)云々と朗々とした声で読まれ、生徒は復唱する。「良い言葉ですなあ」以上の説明は何も無いのだが、生徒は皆、惚れ惚れと聞き入るのであった。2年になって、他校の進学指導の名うての教師が配属されて、「受験対策」一辺倒の授業になり、我々心ある生徒は一斉にそっぽを向いた。現職時代、英語の授業では必ずまず音読を求めたのは、それによって言葉の意味が分かっているかを察知できると考えていたからである。いや、このような小生の経験も外山氏の主張も、AIが蔓延して従来の語学授業も卒論指導も成り立たないという今日の現場の状況を側聞するにつけ、昔の寺小屋式教授法を導入しない限り、学校教育再生の道は無いのではないかと思う年の暮れである。 (M. Y.)
* 冒頭のグライダー人間・飛行機人間の章からの衝撃。「正解と不正解」がある受験勉強のためだけに学校が存在してるという現実。人生が「正解と不正解」の二択で済むようなそんな単純なものではないことくらい誰もが分かっているのに。この本が世に出てから40年近く経っているが、この国の教育の根幹はほとんど変わっていない。
 思考を「寝させる」の章では、まさに今、ドハマりしている八雲の話…彼の幼少期からの様々な体験が何十年という無意識の時間「寝かせる」を経て、セツが語る怪談「目に見えない世界」を感じることで再話という形で結実したことと重ね合わせながら大変興味深かった。生成AIが恐ろしいくらいの速さで進化していく昨今、もしも著者がご存命であれば、人間が真に人間らしく生きることが一層難しくなってきた今の世の中を「昔はまだ良かったが・・・」と嘆かれるのではと思ってしまった。(M. K.)

506 /29/11/25 /『香華』/ 有吉佐和子/おだしと日本酒の店 かなえ(鼎)/勝野真紀子
* 500回記念以降久々の顔合わせとなる女性三人の会は、終始話題の絶えない賑やかなひと時でした。484回の「青い壺」以来、著者の作品を読み直していたところ、「香華」という題名に惹かれた。ここ最近のKeysで取り上げられた本の中の女性たち(江戸~昭和初期)に共通するのは、社会的地位というものが与えられず女が生きていく手段が極めて限られた時代に、男にはない「しなやかさ」と「たくましさ」を併せ持ち、健気にそして献身的に生きていく姿であろう。
 母性のかけらもない母を憎み嫌悪しながらも、主人公が何度もつぶやく「お母さん…」という言葉は切なく哀しいが、長い年月に亘る母娘の物語が色彩豊かな季節の移り変わりとともに描かれていて、意外や意外にも読後は清涼感を味わうことができた。(M. K.)
* 1983年の朝ドラ『おしん』で主人公の少女時代を演じて世界的な名声を博した小林綾子の今を録画した「剣客商売」で追っかけしている昨今である。彼女の魅力は、感情を目で演技する目力と健康的な明るさだろう。今回のKeysの本は、途中から或る空想をしながらでないととてもでは無いが読み続けることは出来ないと感じるようになった。小柄で丸顔で、不屈の意志を持った小林綾子を朋子役にした映画として観るのである。郁代役は誰?84歳にして今なおその美貌でマスコミを賑わしている岩下志麻?・・・それにしても、読むに耐えない「郁代」をこれでもかこれでもかと書き続ける作家には何か女性としての怨念でもあるのだろうか?  (M. Y.)
* この本は昭和40年に初版が出ている。高度経済成長真っ只中のその頃、圧倒的な女性の役割は、夫が外で働く中で家庭を作って守ることであった。女性は結婚して出産、子育て、親に尽くして看取り、供養することが当然であった時代背景があって、それを望んでもできなかった女性の一生を描きたかったのであろうか。
 小説の大部分で、「自分の居場所」いう拠り所を主人公やその母親がそれぞれ違う形で求めている姿を、延々と描いている。しかし、最後には主人公の朋子が様々な援助を糧として生かし、自力で大きく成功して終わっているので、結局、それを描きたかったのか。母親の郁代にも、チャンスがあれば、ファッションデザイナーやアパレル業界で力を発揮してもらいたかった。稀有な才能ではないかと思いながら読んでいた。 (N. N.)

505 /10/25 /『セツと八雲』/ 小泉 凡/流会/山中光義
* 小泉八雲は英訳の「古事記」を読んで日本に興味・関心を持ってくれていた。彼ははるばる極東の日本まで渡ってきて、松山や熊本で英語教育の祖、東大では夏目漱石の前任で英文学の祖となっていたという事実をこの本で知った。米国にいる時、彼は記者であり決して学者や小説家ではなかったが、民話や民間信仰、風土記などへの興味が勝り、日本文化の神秘を紹介しようと精力的に著し、世界に向けて発信してくれた。これこそが彼にしかできない偉業だったのだと、凡さんのおかげで認識を新たにした。神々の里である出雲に、彼が日本で初めて上陸したことの意味は大きい。多くの民間伝承による怪奇話や、仕事上も人生もパートナーになるセツとも巡り会うことができた。私にとっても出雲という地域への興味が一層深くなった。八雲が愛した夕日と宍道湖の風景をじっくり見て何かを感じたい。 (N. N.)
* 私にとってハーンは、東大講義の中で日本に初めて「バラッド」という言葉を紹介して「バラッド詩」を論じた偉大なる先達であるが、1890(明治23)年来日した彼が英語教師のポストを得て最初に教壇に立った出雲で、「記憶力より想像力、理性よりも感情が大切で、そんな力を伸ばすのが教師の仕事」と考えていた八雲にとって、暗記一辺倒ともいえる教育方法、「知識偏重」の傾向を看過できなかったとある。明治以降今日まで日本の教育は基本的には変わってこなかったのではないか。そういう意味でも、八雲の「怪談」の世界に誘(イザナ)う今回のNHKの朝ドラは天晴れであるし、500を超える物語世界を逍遥する我らが’Keys’も天晴れであると自画自賛! (M. Y.)
* 夜の闇が今よりもずっと濃く必然的に耳に頼る体験が多かった時代である。若くして片方の視力を失い過労からもう片方の視力も衰えていたハーンは、それだけに、音への感覚がひときわ鋭かったという。異国の地で見えざるものを五感で感じようとするハーンと、幼い頃から出雲地方ならではの神話や民話を聞いて育った怪しい物語好きのセツ。二人が出会い、心を通わせると、「うらめしかったこの世界はいつしかかけがえのない素晴らしいものに化けていく」(NHK朝ドラ『ばけばけ』HPより)。急速に技術革新が進む現代社会で、人の暮らしや価値観がどんどん「化けて」いく。その中で取り残される人のうらめしさも、いつしか、かけがえのないすばらしいものに化けていく、そんな気持ちで毎朝のドラマを楽しんでいる。 (H. K.)

504 /27/9/25 /『おんなの女房』/ 蝉谷めぐ実 /米ル GARDEN CITY/末信みゆき
* 志乃の人としての成長物語ではあるが、それぞれの姫が登場する歌舞伎の演目を四番観せてもらっているような臨場感も感じ面白かった。憑依型役者の燕弥との生活の中で、志乃は歌舞伎という舞台芸術にすっかり魅せられていく。
一方で、夫婦とはこうあらねばと頑なだった志乃が、最後の演目八重垣姫で夫婦の形は千種万様と自信を持ち自らの考えで人前でも動き出すようになったのは、作品の持つ力の賜物か、周りの役者たちや妻たちの力なのか。志乃自身の感受性や受容力が大きかったと作者は言いたいに違いない。作品や役者を育てるのはそれを観る一人一人の感性であると。 (N. N.)
* 豊﨑由美の「解説」に、「役者の芸の真髄のみならず、女の真実も「虚実皮膜」にあるのかもしれない」とある。「虚実皮膜」(きょじつひにく) とは、「芸術は「虚(虚構)」と「実(現実)」の微妙な境界面にあるとする、近松門左衛門の芸術論 」だそうだが、若い頃から今日に至る半世紀以上の間、「虚実の間(あわい)に人生あり」とうそぶいてきた小生にとって、我が意を得たりと思わせる作品であった。 (M. Y.)
* 歌舞伎の演目に登場する姫たちや役者の女房たちという多くの女を通して「志乃という人物に女のいいところも悪いところも全部ひっくるめて味わわせるための物語なのだ。」と、巻末解説で豊崎由美氏は言う。全部ひっくるめてというのもいささか乱暴な気もするけれど、いったいそれは女のどんな部分なのだろう。キーワードは奥役の善吉が、下級武家の娘として育ってきた志乃に言い放った「健気(けなげ)さ」ではないか。身を捨て、実父を裏切り、果ては蛇にも変容してまでも男を慕う姫たち、夫の密通相手を探しに芝居小屋にまで乗り込んでいくお富、役者としての亭主のために妾をあてがうお才、そして女より麗しい女形役者の女房でありたいと思いつつも男性として変わっていく夫に嬉しくなる志乃。女たちはみんな良くも悪くも健気なのだ。このような女の健気さが、男女平等を叫ぶ渇いた現代社会の潤いになるのではと思うのだが。(H. K.)

503/23~24/8/25 /『街とその不確かな壁』 (下巻) /村上春樹 /二日市温泉大丸別荘 /渡邊稔子
* ハーモニカの音色は、懐かしく、郷愁を誘う。今日は皆がkeysに帰ってきた。皆、人生のどこかの時点でkeysと出会い、keysは、それぞれの人生と交錯しながら歩み続けてきた。500回を超え、また移ろいゆくだろう、我々も、keysも。 (T. W.)
* 1982年にノーベル文学賞を受賞したコロンビアの小説家ガルシア・マルケス(1928-2014)の『コレラの時代の愛』をめぐって、第2部61節に、「彼の語る物語の中では、現実と非現実とが、生きているものと死んだものとが、ひとつに入り混じっている・・・まるで日常的な当たり前の出来事みたいに」という一節がある。ノーベル文学賞を取りえない村上の世界も負けないくらいの「マジック・リアリズム」の世界かも知れないが、第44節での前任の図書館長との会話の中で、その図書館長(の魂)が「いったん混じりけのない純粋な愛を味わったものは、言うなれば、心の一部が熱く照射されてしまうのです。ある意味焼け切れてしまうのです。とりわけその愛が何らかの理由によって、途中できっぱり断ち切られてしまったような場合には。そのような愛は当人にとって無上の至福であると同時に、ある意味厄介な呪いでもあります。」という下りがある。このナイーブさはひょっとして村上本人の正体ではないかと、何の根拠もなく直感した。そして、それがノーベル賞を取りえない理由では??? (M. Y.)
* 現実と非現実との狭間の曖昧さ。本物と影との狭間の曖昧さ。この小説の象徴的な場面は大きく三つ。一つ目は、高校生の「ぼく」が「きみ」の話を熱心に聴いている場面。川べりを歩いたり草むらに座ったり、夏の日差しや水面の煌めきの描写が特徴的で、「ぼく」はここで体験した強烈な記憶と大きな喪失感に囚われてしまう。二つ目の場面は「私」が図書館で「夢読み」の仕事をし、「本物のきみ」と日々の生活をおくる壁に囲まれ時間の存在しない「街」。「私」の意識の深層部分にある非現実の世界。ここの描写はほぼ夕刻後で暗く冬の寒々しさを伴う。第一部はこの二つの場面の描写をメインに、強い喪失感を抱え孤独を抱えながら大学に通った後に就職もし、45歳を過ぎた頃、自分の生活に焦燥感を抱いた「私」が穴に落ちる。また、「街」の中で「影の私」が「街」から脱出し、「本物の私」が「街」に戻って終わる。
 第二部からの「私」は二つの場面での出来事を深く意識に据えながら現実と称される場面で他者と交わっていく様が描かれる。ここが三つ目の場面である。ここでは他者と関わる現実の日々の生活の営みが描かれるのだが、重要なキーパーソンが幽霊や特異な能力を持つ少年であり、現実と非現実の境をいよいよ曖昧にしながら徐々に三つの場面が渾然一体となっていく。そして「私」がコーヒショップの彼女を強く求めていることを自覚することで、ようやく高校生の「きみ」の喪失感からの解放が暗示され、第二部が終わる。
 第三部では、「私」はイエロー・サブマリンの少年と互いの存在を保ちながら身体は一体となって「街」で存在することになる。私の意識の深い部分にあったはずの「街」に、第三者の介入が起こる。この少年の介入により、この「街」にとって、また「きみ」にとって、「私」がこの「街」に存在する意義が薄れてくるという展開。同時に「私」の心に活発に動き出した何かを自覚することで、「私」は「街」に留まるより現実の世界に戻って生きていく決心をする。この時には「街」にも春が巡ってきている様子が描かれているのが象徴的である。(N. N.)

502/21/7/28/『街とその不確かな壁』(上巻)/村上春樹/西鉄グランドホテル日本料理松風/中竹尚子
* 第二部冒頭に、「川の流れが入り組んだ迷路となって、暗黒の地中深くを巡るのと同じように、私たちの現実もまた、私たちの内部でいくつもの道に枝分かれしながら進行しているように思える。いくつかの異なった現実が混じり合い、異なった選択肢が絡み合い、そこから総合体としての現実が──私たちが現実と見なしているものが──できあがる。」という一節があるが、主人公のこのような認識の出発点に高校時代の恋愛感情と、それが生み出した「夢の世界」の「現実感」(第8節)があったということ。従来、村上春樹の世界は私には難解であったが、この作品は思いがけず読み込めた。その理由は、私自身が高校から大学にかけて体験した恋愛と、それに関連してフロイトやユングの「夢の精神分析」に熱中し、ある時期、夢をコントロール出来ると豪語し、その習慣から、未だに(昼寝も含めて)眠りにつくと必ず夢の世界に入り込むという特技 (?) が身についているからである。これは楽しくもあり、苦しくもあり・・・?! (M. Y.)
* 「高い壁に囲まれた街」は夢を描く力を持つ高校生の彼女の話から始まる。彼女の話を書き留め彼はその街を描き、二人でいつもその街について詳細に話し込み、彼の意識にしっかり刻み込まれる。そこに行くには「あなたが本当に本当のわたしを求めているのなら」と彼女が口にしなかった言葉なのに彼は確信を持ってそう聞き取っている。序盤はその街の景色が並行して描かれ、彼と彼女は実際にその街で生活を送っている姿も描かれる。その後、彼女は現実世界では忽然と姿を消したが、彼は意識の中でその街で本当の?彼女と生活している。
 今回の作品では、個人の深い意識の底で作られた街でありながら、彼女と彼とイエローサブマリンの少年との複数人がその街と関わっているようである。それぞれが捉えている街は、元々の彼女のものと詳細に聞き取った彼と話を映し取る不思議な能力を持つ少年とでは微妙に違っているのであろう。各人の意識の底で作られた街が複数人で共有できるものなのか。特殊なのは現実世界からその意識の街に入り込み、忽然と現実世界からは消えてしまう恐ろしさがある。ただ、それは本人が強く望むかどうかが試される。作者が今回の小説で新たに伝えたい何かはそこにあるように感じているが、果たしてこの小説を読み終えてもそこをスッキリさせてくれないのが村上春樹であろうとも思う。(N. N.)


501/25/6/28/『カフネ』/阿部暁子/ 喜水亭(三越) /千葉敦子
*(幹事)「カフネのチケットを必要とする人が、それほど多くいるものだろうか?」との問いに、残念ながら「イエス」と答えざるを得ない今の私たちの社会。そんな社会で、では私はこれから先どんな生活を送ればいいだろうと考えてしまう。できるだけ拘りを捨て、軽やかにもうここまで来たらわがままに過ごせたらと思う一方で、「リタイア後は、もっと勉強したいのよね」というNさんの言葉にど~んと刺激を受けて、またまた心が右往左往してしまう。まだまだ修行が必要です!
* 定年後20年近く経ち、年齢も80を優に超えてくると、世間の現状が理解できなくなる。今回課題の本の内容は丸で理解し難く、パートナーにこのような事(料理もできないし、家中ゴミ屋敷)がありうるかと尋ねると、これは最早世間一般に多くある事柄で、驚くに値しないという即答であった。このまま進めば国が滅びるのではないかとさえ思いてくる。しかし、最終場面で、薫子とせつながお互いの髪に指を絡めて終わるという、あまりにも古典的で素朴な感情表現に、作者の切ない胸の内が覗けた気がした。 (M. Y.)
* わかることには限界がある。ならば反対にわからないままでいる、という方法があるではないか。小野寺せつなは自分の「感情」を言葉にすることを徹底的に回避して生きている。それが彼女にとって「死」というものが身近に存在する環境にありながら生身の人間として生きていく「術(すべ)」だっ たのかもしれない。その上で、自分の 家の冷蔵庫に入っているものといえばパック入りの栄養ゼリーだけという彼女の作る料理が、家事代行で出会う自暴自棄になっている人たちの心をときほぐしていく、というのはどういうことだろうか。そこには、人と共にあることでどうしても生まれる繊細な「感情」がある。一緒にいても相手がどう思っているか究極にはわからない、それでも感情を共にする、もうそれだけで十分いいじゃないかと思えてきた。( K.H. )
* 大切な人が次々にいなくなる喪失感。身体に合った良いものを食べることと身の回りを整えることができなくなった人たちの生活。小説の大部分で、普通のことでもあるそれらの大切さを十分に感じさせてくれる。「カフネ」髪にそっと指を通す愛情表現は、子どもが小さい時には普段にやっていたが、なんとも言えない愛おしさから自然に出てくる仕草。ちゃんと食べて整った環境で生活すること、その普通の生活を営む延長に、大切な人との繋がりも、互いに頭を撫で撫でしてしまう普通の仕草、愛おしさでそこにあるものだと感じた。 (N. N.)

500/25/5/24/『STONER(ストーナー)』/ジョン・ウィリアムズ/東江一紀訳/しらに田 /勝野真紀子
* 幹事コメント:Keys500回という大きな区切りに偶々図書館で目に留まった本、気づけば静かな館内で時が経つのも忘れてストーナーの世界に没頭している自分がいました。これといって偉業を成し遂げたわけでもなく、歴史上どころか彼の周りの人々にとってさえ、彼の生涯は強烈な印象を与えたわけでもない。しかしながら「人がひとり生きていく」とはそういうことなのだと深く思い知る。静かに語られるストーナーの人生を読み進めていくなかで、誰もが自分の人生の様々な時間と重なり、それは胸の奥で澱のように積り沈んでいた「何か」にひたひたと迫ってくる。翻訳者東江氏が「平凡な男の平凡な日常を淡々と綴った地味な小説なんです。そこがなんとも言えずいいんですよ」と語っらっしゃるが、静謐な情景描写の美しさ、言葉の持つ力、本の世界の豊かさにあらためて気づかせてくれた作品でした。(M. K.)
* 文学の楽しさ、ワクワクや高揚感が人生を転換させる力を持つことを改めて示してくれた。「アーチャースローンの授業での自己変革の過程、言葉にできないものを言葉を通じて知るという文学的発見の過程」この経験を渇望のように生涯求め続ける。これがストーナーの核となり、彼が本来持っている実直さと逞しさ。思う通りにならず、ストーナーに立ち塞がって壁となる人々が物語を作る。ストーナーの普段の日常を、その時々の気持ちの浮き沈みを、淡々と亡くなる瞬間までを丁寧に描いている小説。読み終えた時に私が感じた清々しさは何なのだろう。彼が一貫して自分を偽らず選択してきたことかしら。(N. N) 
* 1983年10月の第1回から数えて、今日が第500回。気づいたら、41年余りの歳月が経過していた。毎月一冊の本をめぐって集い、語らい、時には休会、コロナ期にはZoom 利用などを経て、一冊、そしてまた一歩、私たちは歩んできたのである。それは、出入り自由で、変わっていくことを自然のこととして受け入れてきた故のこと。メンバーそれぞれの人生と絡み合い、これからもkeysは興味深い一生を送っていくと期待したい。500回は助っ人(英文の同級生)の参加があり、無事成立した。こういうのも、また面白い。(T. W)
* 学生をめぐる評価がきっかけとなって展開する同僚教授との確執から伝わる陰湿なリアリティ、他方で妻と娘とのリアリティに欠けるーしかし現実のー物語展開、人間が生きてゆくことの難しさを綿密に辿る中で、キャサリンとの束の間の結びつきが、後年出くわす彼女の出版した本に記されていた”W・Sに捧ぐ”というひと言の献辞を通して、主人公だけでなくこの小説に引き込まれた全ての読者を救う。「言葉にできないものを言葉を通じて知るという文学的発見の過程」(第6章)を小説全体が教えてくれたのである。(M. Y.)

499/25/4/29/『すべての、白いものたちの』/ハン•ガン/食堂ぎんみ/渡邊稔子
* 私の前には水子がいた。その胎児が流産しなければ、私はこの世にいなかったか?私の長男の前に生後10日で亡くなった子供がいた。もしもそうならなければ長男もこの世に生まれなかったか?英米でかつて流行った意識の流れタイプの小説では、最初から最後まで主人公の意識の流れに付き合わされるが、断片を貼り合わせたようなこの小説では、主人公の断片的な意識をヒントにこちらも自由に意識の逍遥が許されている感じで、この世に「純白」は無いと確信し、様々な色の混ざり合いの人生を回顧する機会を与えてくれた作品であった。(M. Y.)
* 三部作の「フォトエッセイ」のように感じられた作品が、第一章から二章三章へとつながる「物語」に見事に変わったのは、訳者斎藤氏が「先に解説を読んでから文にアクセスしてください」とする巻末解説のおかげである。しかしイ・ラン氏の書評「白いものについて読み、白いものを思い浮かべるだけで記憶が満ちあふれ」からは、もしかすると解説を知らない方が読者それぞれがそれぞれの白いものと自由に出会えたかもしれないと受け止めることもできるとするのは私だけであろうか。単体の「白い」からむごくきびしく、それ故に刹那的で美しい「白いものの存在」を教えてもらった作品だった(H. K.)
* 2部の「彼女」で描かれる白いものたちは、あまりにも苦痛や悲しみ、儚さを含んでいる。吠えない白い犬はその生涯を終えるまでなんと切なすぎる。作者は何が言いたいのか?「作家の言葉」で初めてわかった。白「ヒン」は生と死の寂しさをたたえた色だと。破滅して復活したワルシャワという都市と、生後亡くなった姉が生きていたらというのイメージが、詩のような文章で折り重なる。私自身が掴みきれないもどかしさもあり、何度も読み返したくなる作品であった。 (N. N.)
* 「2024年にノーベル文学賞を受賞した韓国人作家が書いたもの」ただそれだけの情報(知識ではない)しかないままに、この本を選んだ。文庫で出版されており、ページ数も多くない。これならみんなが手に取りやすいかもしれない。それだけの理由。スマホを開いて読み始め、疑問ばかりが湧いてくる。どうして白いものについて書くの?白いものっていったい何?「私」が主人公?「彼女」って誰? 作家の言葉、訳者の補足、平野啓一郎氏による解説、それらを読み終え、もう一度読み返して感じたのは「死があるからこそ、生がある」ということ。舞台はおそらく秋から冬へ向かう季節のワルシャワ。ソウルの冬と同じように厳しい寒さなのだろう。破壊から再生したその街で、書くことで死を受け入れ、生へと向かっていく。死をそのままに受け入れる。それが「白いもの」と表現されているのではないか。「死は生の対局としてではなく、その一部として存在している」好きな小説の一文を思い起こした。それにしても、私にとって、いつのまにかkeysは毎月繰り返される日常となり、回数を数えることを忘れてしまっていました。(T. W.)
* ノーベル文学賞受賞作家ハン・ガン(韓江)は、あまりにも素晴らしい作家。彼女は日々の生きる思いや痛みを描く。雪が白く積もり、すべてが白く覆われ、すべてを隠し、雪が溶けない冷たい風景が描かれながら、透きとおったような彼女の美しい言葉が続く。『すべての、白いものたちの』は、彼女自身の個人史にも通づる。白い産着に包まれながら、生まれて2時間あまりで世を去ったハン・ガンの姉や「死なないで、死なないでお願い」と最後までささやきかける母の哀しみ、生と死、を喪を象徴する「白」でたたみかける。ハン・ガンは、姉が生まれていたならば、自分はどうなっていたのだろうか、自分は存在しなかったのではないか、と問い、生死が交差するかのような不思議な広がる時空を描く。ノーベル文学賞受賞式で「風と海流。全世界をつなぐ水と風の循環。私たちはつながっている。どうぞつながっていますように。」と、述べたように、彼女の物語は、時間的にも空間的にも広がっている。(H. S.)

498 /25/3/29 /『団地のふたり』/ 藤野千夜 /寿司割烹黒潮  /中島久代
* 幹事コメント:Keysのメンバーは昭和生まれ。3月の例会では、「団地」ということばのニュアンスの変遷がひとしきり話題になりました。長い昭和の生まれ育った時期と場所でイメージが異なっていることはちょっとした歴史発見でした。
* ドラマでこの作品の虜になっていたが、私の大好な個性的でほっとする奈津子の部屋は原作そのものだったと思い知らされた。原作の世界観の素晴らしさを改めて感じるとともに、それをエキス的に見事に表現していた小林聡美と小泉今日子がこれまたすごい。長年住み続けた団地だからこその人間関係。住民の多くは親の世代で、50代でも若手とされ何かとお役立ちを求められる日常、そのプチな助け合いがなんとも読んで心地良かった。(N. N.)
* Keysで2004年4月に『負け犬の遠吠え』(酒井順子)を取り上げましたが、その頃「勝ち組・負け組」という言葉がトレンドでした。温暖化、震災、天災、コロナ禍、戦争というずっと不安定な世情の中で負けるということに違和感が薄れ、その言葉はすっかり忘れ去られたように思っていました。奈津子とノエチの物語は久しぶりに「勝ち組・負け組」を思い出させました。多分、このトレンド語の定義で言えば、2人は負け組。ですが、2人のつつましい生き方を、なんだかほっとする、なんだか羨ましいものにしているのは、2人を取り囲む新旧の要素、都会の中の古びた団地という空間やそこに住むお年寄りたちという古さとネットオークションや百均という新しさ、とそれをうまく活用する2人の人柄と知恵、だと思いました。スイスイ読めるけれど、随所にこの時代をどう生きるべきかを考えさせる小説でした。小説より先にテレビドラマを見ましたので、主人公女性2人のイメージがどうしても奈津子=小林聡美とノエチ=小泉今日子になってしまいますが、名演技だったと思います。(H.N.)
* この物語を読みながら、主人公二人の生き方にだんだんと惹かれていった。50歳を迎え、幼い頃過ごした団地に戻り生活を営む二人。イラストレーターの仕事をしながら、不用品をネットで売り生活している奈津子と、大学の非常勤講師を掛け持ちしながら生活する野枝。「女性が輝く社会」と掲げられながら、この日本では女性がなかなか輝くことができない現実がある。その現実の中で、もがく事をしたのか、しなかったのかは分からない二人だが、今は自分たちの実情にあった毎日を送っている。二人は時々喧嘩するが、お互いを尊重している。団地の人々から不用品を受け取り、それを生活の糧にする営みは、托鉢修行を行い功徳を積む僧の姿のように見える。団地のおばあちゃんたちに網戸の修理など経験のない事を頼まれ、何とか応える二人。おばあちゃんたちを助けているようにも見えるが、実は二人は暖かく見守るおばあちゃんたちに助けられているのかもしれない。「助ける」「面倒をみる」という言葉では本当の助けにはならない。人に寄り添い、人に尽くす事の幸せを教えてくれる物語だ。(H. S.)
* 家から車で10分弱のところに1977年(昭和52年)に当初は170戸の原形が完成、2010年現在約2000世帯が暮らす総数55棟の高層公団住宅団地「四箇田団地」があり、郵便局や銀行の所用で毎週のように出かける場所である。2022年(令和4年)7月末現在の人口は2,967人で、空き部屋が目立っているようであるが、小説の舞台と同じ、「基本は昭和の団地仕様」だと思われる。小説では、「板の間と畳の部屋が三つ。素っ気ない流しと洗面台。ガスコンロとシンプルな換気扇。一度交換したはずだけれど、昭和感のただよう白い湯沸かし器」とあるが、田舎暮らしの小生には、「公団住宅」は憧れのモダンな生活空間の響きそのものであった。1973年(昭和48年)の暮れに転勤で現在の場所に移ってきた時、50坪そこそこの分譲地に隣接して、「田隈団地」と呼ばれる一画があった。「団地」と言っても、各戸いずれも100坪近い分譲地の戸建てであった。「団地」という響きが「憧れのモダン住宅」というセールスポイントになっていたからに違いない。戦後日本の住宅の歴史と人間模様を見事に表現した好編だと感心した。小泉今日子/小林聡美/由紀さおり等によるテレビ放送も大いに満喫した。 (M. Y.)
* 以前、団地に住んだことがある。全部で28棟もある大型のUR公団なので、敷地の中にショッピング店舗があり、食料品や衣料品を扱う店、クリーニング店、電気店、郵便局や病院まであった。団地の外に行かずとも普段の生活には不便は感じないかもしれない。学校も幼稚園から小学校、中学校まであるから、引っ越さなければ団地のいたるところに幼馴染がいることになる。団地の中を歩けば軽く会釈を交わすくらいの顔見知りに必ず会う。それは穏やかではあるけれど時に窮屈さを感じる世界で本書とのニュアンスの違いを感じた。が、網戸を自分で変えたり、古い風呂窯のレバーを回して湯を沸かしたり、団地内にある唯一の喫茶店でたまにナポリタン(パンケーキでなく)を食べたのは良き思い出となっている。(H. K.)


497/ 25/2/22/『ゲーテはすべてを言った』/鈴木結生/蓮/山中光義
* タグのフレーズにある「love」「confuse」「mix」が、様々な解釈の中でより謎を深めていく。面白い展開と思った。統一の学者としての矜持も相まって、ゲーテの哲学やキリスト教の教示、シェイクスピアなどの錚々たる面々の「言葉」が謎解きに関わってくる。全ての言葉は確かにこれまで言い尽くされているのかも。統一の暗中模索の真っ只中で、そのようにも思えたが、そう言い切ってしまうと、途端に面白くなくなってくる。それぞれの「言葉」に対する興味が深くなり、より知ろうとする自分がいた。小説としては、最後、意外にあっさりした印象で終わったが、「言葉」の持つ魔力を存分に思い知らされた作品だった。 (N. N.)
* 博把統一が放送番組用に準備したゲーテ『ファウスト』をめぐる約120頁のブックレットが「はち切れんばかりで、何だか、八〇年代のオールスター・キャスト・ステージを髣髴とさせないでもない。これでは書き手ばかり満足して、読者は胸焼けするのではないか、と今更ながら不安に感じると共に、結局、俺はいつもゲーテに託けてすべてを言い切りたかったのだ、と、、、、己の未発展に鼻白む。」という一節を、この若き芥川賞作家が受賞作へのパロディとして書いているとしたら、乾杯したい。それにしても、「専門への知ったかぶりと専門外への知らん振りがマナーのような学問の世界」という的確なる情報を彼はどこで手にいれたのだろうか?難しいと言われる受賞後の次作に注目したい。(M. Y.)
* 著者の鈴木氏は、10歳の時に3.11福島の原発事故を経験して世界の滅亡を感じ、この不安定な世界を小説を書くことでなんとかつなぎとめようとしたと語る。(3/22朝日新聞「好書好日」)作中の大学教授の統一は、目の前に広げたテクストを見ながら思う。「なるほど多くの単語があり、それぞれに役割があって並べられている。(中略)だからといって、それら一つ一つの語彙が完全に必然性を持ってそこにあるとは、統一にはどうにも信じられなかった。」すべてを言葉にしないと気がすまないが、その必然性を確信するのは自分だけなのも確かだということか。真も偽もないまぜになった言葉の流れがあふれた作品だった。(H. K.)

496 / 25/1/25/『塞王の楯(下)』/今村翔吾/ななつの花/千葉敦子
(幹事コメント)
充実したシニアライフを過ごせる達人を目指し修行中の4人が、現在のこと、将来のことについて、楽しく語らいました。「塞王の楯」については、映像化するとしたらかの石積みの達人を演じるのは誰が良いか・・・叶わぬことながら、西田敏行さんならば期待に応えてくれるのではないか、と想像してみたりして。どの石が要石なのか、それが見抜けるからこその塞王なのだけれど、願わくば自分もこれからの人生において要になるものを見出し、どっしり過ごしていけたらいいなと思いつつ帰路につきました。
* NHKの歴史番組「歴史探偵」では、1月8日午後10時から「戦国ご当地大名シリーズ 立花宗茂」が放送された。生涯無敗、戦国最強といわれる立花宗茂の強さの秘密を徹底調査、見えてきたのは、敵を翻弄した底知れぬ知略と独自の鉄砲戦術であった、云々と。今回の『塞王の楯』(下)で、大津城主高次は、敵軍の将家康に、「拙者は蛍大名にて。皆の力を借りねば耐えられませなんだ。」とけろりと言い放ち、流石の家康も面食らって苦笑していたという。他方、飛田匡介は、開城の後、立花家の陣に呼ばれ、「どうしてもお主の顔を見てみたかった」と言われ、「何故、石垣が崩れなかったのに降伏したのだ」と訊く西国無双立花宗茂に、どうしても必要な要石が、あの一撃で割れたからと応えて、宗茂を驚かす。NHKの視点と違って、主役は匡介の「楯」なる職人魂対国友彦九郎の独創的な鉄砲戦術の「鉾」の戦であった。NHKの番組製作者がこの本を読んでいたら、まったく違った内容になっていたのではないか。(M. Y.)
* 冒頭の「序」、朝倉家の百年の安寧に守られてきた一乗谷の民が徐々に騒然となって山城に逃げ惑う様子。離ればなれになる妹花代の姿が、賽の河原での石積みと相まって、この後の匡介の生涯に大きな影響を及ぼし続ける。この場面、平和に慣れた民が身の危険を感じ始めてパニックになるまで実にリアルに描かれ、今も世界で起きており、いつかは我が身にも起こりうるかと、「戦争」へのつらい気持ちを想起させるものであった。冒頭から作者の世界観に引き込まれてしまった。(N.N.)
* 敵と味方、決して面と向かって対話していないのに互いの考えを理解しながら己の誇りをかけた戦いの幕が上がった。緊張感のある場面が続く下巻で、飛田屋・荷方小組頭玲次が敵方に囲まれながら死を覚悟して石を運んで帰ってきた場面に高揚を感じた。飛田源斎の親類である玲次が源斎の跡を継ぐものと思われていたが、源斎は匡介を養子にして跡取りにした。それ以降、石垣づくりの3工程のなかで最も過酷とされる荷方に転身した玲次。「石垣というものは大小様々な石によって成り立っている。形もまた様々である。幾ら整った石でも場所によっては役に立たず、歪で不格好な石でも要として役立つこともある。それぞれに力を発する、意味のある場所があるのだ。」という彼の言葉がより尊く思われた。 (H.K.)