2023年度
回 /開催日 /本 /著者 /店 /幹事
483 28/12/23/『灯台の響き』/宮本輝/兼平鮮魚店/中島久代
* 2023年納めのKeysには、東京のKさんが帰福、加えて大学の研究室のS先輩も参加、納めの読書会に相応しい、作家と作品をめぐってコメントが飛び交うKeysとなりました。宮本輝の『ドナウの旅人』や『錦繍』と、最近の『田園発 港行き自転車』や『灯台の響き』の違和感をどう捉えるか。遡って、先月の『鍵』の谷崎の文体と棟方志功の版画の組み合わせが与えるインパクトは何か。谷崎、三島の再来平野啓一郎、ノーベル文学賞を取れない村上春樹、この3名の文体とは。異論もあるが、議論が楽しい、Keys原点の夜でした。(H. N.)
* 中華そば屋を朝から晩まで夫婦二人で切り盛りし、全てを知っているはずの妻の急死。引きこもる康平が「神の歴史」から妻の謎「灯台巡りの絵葉書」を手にする。康平は一歩ずつ動き始める。謎解きと自らの灯台巡り、子供や友人など様々な人たちとの関わりが一層深くなり、店を一人で再開する意欲を得る。最後は日御碕灯台の雄大な景色が、神のように人々の前途を照らしている。 (N. N.)
* 40年前に太平洋を縦断する50日間の船旅をした。海上で灯台があることを知るのは夜になってから。日中は空と海の色に混じりその姿に気がつかなかった。そんな灯台のことを「動かず、語らず、感情を表さず、何事にも動じない、…多くの苦労に耐えて生きる無名の人間そのもの」(文庫本p335)と主人公は語る。日が落ちると点灯して航路を照らす灯台のように、足下がおぼつかない人や道に迷っていたりする人に灯りをともす人間に、私もいつかなれるだろうか。(H. K.)
* 1960年(昭和35年)4月の大学入学以来、連日の安保闘争のデモに参加していた日々は、それなりに「新しい生活」の充実感に満たされていた。6月15日、デモに参加していた東大生樺美智子の死は、厳しい一つの現実を私に突きつけた。夏休みに入って、私は「日御碕灯台」に旅した。なぜそこを選んだかは覚えていない。下関の山奥から福岡の地に出てきたことは、私にとっては外界への大きな一歩であった。そしてこの出雲への旅は、第二の大きな一歩であったと言えよう。断崖に打ち寄せる日本海の荒波と空気を切り裂くように舞う無数のウミネコの姿と鳴き声は、人間界とは別個に存在する大きく厳しい自然界があることを教えてくれた気がする。この小説の主人公にとっては「日御碕灯台」は終着点であったが、私には8年後の(アメリカからの帰路)二週間の太平洋横断の船旅の出発点であった気がする。(M. Y)
482 25/11/23/『鍵』/谷崎潤一郎/ホテル日航福岡 カフェレストランSERENA/山中光義
* 夫婦の性的嗜好の異常さを赤裸々に、お互いの日記の盗み見で、より妄想を膨らませ死をも畏れなくなる。暮らしぶりやファッションなどの生活環境は徹底して品がよく、その相対性に魅力が増す。また、主観のみの個人の日記という形に、最後に客観的な視点を入れ、自虐的でコメディ的なオチをつけている。谷崎潤一郎という作家が晩年に書いた作品と考えると凄いとしか言いようがない。(N. N.)
* 挿入された59点の棟方板画について:身体全体の輪郭、眼、鼻、口、乳首、その他のポイントのみを黒く、それによって、横たわる郁子の裸体は純白で尊い「女人菩薩」を思わせる、しかし、他方で、「生れつき体質的に淫蕩であった」ということを匂わす場面では全体が真っ黒で、各ポイントのみが白く光っているように見える。最後の数ページで明かされるように、「夫の死をさえたくらむような心が潜んでいた」彼女は、紛れもなく、19世紀末から20世紀初頭の世紀末芸術・西欧文学において好んで取り上げられたモチーフであるファム・ファタール(仏: femme fatale)、男にとっての「運命の女」(=「男を破滅させる魔性の女」)に属すだろう。人間の中に潜む二局性か、、、。付け加えるならば、新婚旅行の初夜の場面で、眼鏡を外した夫の顔、「アルミニュームのようにツルツルした皮膚」にゾウッと身震いしたとあるが、この場面では、外れた眼鏡だけがポツンと彼女の下腹部に放置されている。棟方の見事なユーモアが表現されており、陰湿になりかねない内容に一服の清涼感を与えている、と感じた。 (M. Y.)
* 京都の旧家に育ったたしなみ深い価値観を持つ一方で、自分中に流れる淫蕩の血に気がついている妻。「読まれることがどれだけわたしをわたしにするのかあなたは知らない」として、盗み読みされていることを知りながら妻は日記を書、その最後で夫の死を企てていた結末が明かされる。そこまで読んで、身体の深いところまで変態的に妻を愛していた夫=世の男性が愛らしく思えて仕方ない。(H.K.)
481 /10/23/『恋ははかない、あるいは、プールの底のステーキ』/川上弘美/休会/渡邊稔子
* 還暦を迎え、社会的にはひとつの区切りをつける時期でありながら、個人的にはこの物語のような、ふわふわした関係性の中で生きています。「結局、中学生が少し複雑になっただけか…」作中のこの台詞が代弁してくれたように感じました。このままでいいと背中を押してもらったようです。 (T. W.)
* 60代で年齢的に近く、久しぶりに会った友だちからコロナ禍での出来事や感じたことを、たっぷり聞かせてもらったような読後感。私たちの年齢では帰国子女は少数派。それぞれの国での日々の生活で、幼いながら「違うという感覚」を鋭敏に感じてしまう。様々な人物が登場するが、年齢が重なることで、さらに生活の事細かな部分で感じ方の違いを自認するようになったり、容認できるようになったりの自問自答を楽しめた。 (N. N.)
* 「古くから堆積した記憶は、おそらく捏造されたり改変されたりしているにもかかわらず、なんと強固に記憶の中にとどまり続けているのかと、あっけにとられるところもあった。」という一節があるが、私の場合もその通りで、それらが殆ど毎晩みる夢の中で展開し、齢(よわい)80を過ぎて益々盛んになってくるので退屈しない。終末の床にあってもきっとそうであろうと想像し、楽しく最後を迎えられるだろうと思っている。 (M. Y.)
480 /9/23/「52ヘルツのクジラたち」/町田そのこ/休会/末信みゆき
(幹事より)本を通して、毒親の存在をリアルに体感しました。逃げ場のない子どもたちを親から引き離すことができたとしても、それで幸せになれる訳ではなく、心の傷は消えないのだろうと思うと辛いです。
* 親の愛情の遮断、様々な形の虐待から絶望的な「孤独」を抱える登場人物たちの、奇跡的な出会いによる成長の兆しが見えたところで物語が終わった。途中、読むのも辛い内容でしたが…。現状、「子どもをちゃんと見ていない」ことで様々な事件が報じられている。「信じられない。どうして」という思いで胸が痛むばかりである。小説の人物たちは遮断された環境ゆえに死と隣り合わせで生きている。その感情の繊細な浮き沈みがリアルに表現され、説得力がありました。(N.N.)
* 子どもへの虐待、ヤングケアラー、恋人のDVと様々な問題に面した主人公の女性は、自分の声は、誰にも届かない「52ヘルツの声」だと言う。果たしてそうであろうか。「愛の反対は憎しみではなく無関心」と言ったのはマザー・テレサだが、愛を欲していた主人公は、ずっと無関心に晒されているわけではなかった。居場所を探して会いに来てくれた友人や、移住した田舎で知り合った地元の男性などがよい感じに関わってくれていることで救われている。気になったのはようやく探し当てた祖母。「孫」について適切な判断をできる人が、その昔に自分の娘をただ置いて家を出る判断をするだろうか。そうしたかどうかで物語の事情が変わってくる人物なだけに、最後に疑問を感じてしまった。(H.K.)
* 主人公がある時期育った場所として「北九州市小倉北区馬借」という地名が出てくるが、これは実際の地名(郵便番号802-0077)で、小倉城下町の町名に由来するそうであるから、生々しい。先月、唐津の元九大生(19歳)が両親をナイフで殺害した裁判で、佐賀地裁は懲役24年の判決を言い渡した。事件の背景には、「毒親」による教育虐待への報復があった。小説の内容も現実の事件も等しく絶句するほどのものであった。一連の事柄が、虐待を積み重ねた「自然」からの報復であると、最近のKeysの本に繋がる確信とも言える想いを抱いた。 (M. Y.)
479 /8/23/『デジタル・ファシズム』/堤 未果/休会/勝野真紀子
(幹事より)前々から手に取ることを何かしら自分の中で躊躇っていた本であったが、前回「本心」(平野啓一郎著)にインスパイアされ、聞こえの良い「デジタル化」へ猛進している世の中とは一体何なのか?その側面でも知れたらと思い選びました。
文部科学省が公式ウェブサイトに2050年までの実現目標として公開している「ムーンショット計画」や内閣府が掲げる「ソサエティ5.0」
政府のHPを見ても何のことだかさっぱり、、、そこでイラスト化された人類のモデルには今こうして日常を暮らしている感情を伴った我々の姿が見えず不思議なくらい共感を持てない。コロナ禍を経て、身の回りでも本当にいろんなことが一気に変わっていった。まさにデジタルの蔓延、当然人間同士のあるべき「摩擦」を「面倒だ」と考える社会が一番来てはいけない「教育の現場」にも既に到来しているのを感じる。国家や政治、経済やGAFAを含めて、強大なシステムが最早個人の理解と行動をはるかに超えてしまった世界に違和感ばかり唱えていても仕方がないが、「我々は人間、太古の昔からヒトである」という実感を我々が持ち続けることがこの「巨大システム」へのささやかな反抗にならないかと考えている。
* 政府の「ソサエティ5.0」政策の中、パンデミックで日本の技術力やデジタル環境の脆弱性を嫌と言うほど思い知らされた。今やデジタル化(DX)、技術革新を進めていくのはやめられない。一方で、裏にある資本家やGAFAなどの投資の流れ、中国が進める監視社会の罠など客観状況を認識しておくことは重要。個人情報のダダ漏れや教育での個人評価の積み上げは決して許してはいけない。それこそ政府や投資家を監視できる目が必要。現在、「タイパ」という言葉をよく耳にする、まさに「モモ」で描かれた時間泥棒に汚染されている昨今。大事なものを見失わないよう教えてくれた一冊だった。(N.N.)
* 世界中の政治、経済、金融、教育等々の隅々まで深く浸透してきている「デジタル・ファシズム」の詳細を掘り起こしている本書には敬意を惜しまないが、人間がこの先歩める解決の道が、著者の「和光小学校」的な方法しか提示できないとしたら無念である。産業革命を境に工業化の道をまっしぐらに進んで今日の’EdTech’があり、それは人類滅亡の必然的な姿であろう。BBC放送の「グリーンプラネット」などを観ても、植物には極悪な環境をもサバイバルしてゆく知恵と能力が備わっているのに対して、「進歩」の名の下に自然を捨てていった人類の当然の帰結のように思えるのである。 (M. Y.)
* 「だが本当にそうだろうか」「思い出してほしい」と、本書の中で筆者は何度も問いかける。デジタルのおかげで、遠隔で人と会って話すことができ、好きな音楽や映画を好きな時に楽しみ、欲しい物がクリック1つで手に入る世界から、もう我々は元に戻れないのに。知らされてなかったデジタル化政策の指摘は参考になったが、デジタルが諸悪の根源のような思考には同意しかねるし、「手間ひまかける」ことの素晴らしさとかで解決できる話ではない気がする。デジタル社会は決して平等ではなく万能でもないこと、便利さを提供しているのが私企業である構造を忘れてはならない。その上で、問題の本質は結局、個々の人間にかかってくることを学んだ1冊だった。(H.K.)
478 29/7/23/『本心』/平野啓一郎/サケサカナ太郎坊/千葉敦子
(幹事より) VF、仮想空間、自由死等々、今の私たちにはリアリティーを感じえないものですが、それが普通に受け入れられる世の中が果たしてやってくるのでしょうか?不安を語りつつ、生の水ナスの美味しさを肴に楽しいひとときを過ごしました。
* 私は人生の折々の決断の時には、「死ぬ時に後悔するかしないか」を選択の基準としてきたので、「あの時、もし跳べたなら」という悔いは無く、「死の一瞬前」をあるがままに受け入れることができるのではと期待している。残るは、「最愛の人の他者性と向き合う誠実さ、優しさ」をテーマに、残された人生を全うできるかどうかだろう。 (M. Y.)
* まさに巧妙な時代設定。20年後に起きていること、A Iの凌駕、超高齢社会(そこに「自由死」というショッキングな選択肢)、格差や分断、人工授精(生まれた子どもの悩み)など、今私が不安を感じている問題を具体的に炙り出してくれている。(そう遠くないから恐ろしい) 登場人物たちの日々の生活の中で感じる繊細な感情の浮き沈みを、実に丁寧に表現できてしまう平野啓一郎の感情の豊かさと語彙の力は圧巻でした。そして私が救われたのは、主人公など苦しんでいる青年たちの再生、これから生きようとする力を描いてくれたことに感謝。私も若い子どもたちの生きる力を信じるのみ。(N. N.)
* 近い将来こういう世の中が本当に現実となっていくのであろうか、、、ヘッドセットを装着すれば、時間や空間をも越えた「死後さえも消滅しない」未来を誰もが手に入れられる世界。近未来の仮想社会を想像することは容易ではないが、背景には「死の自己決定」や「貧困による格差社会」といった現実社会で直面している様々な問題を容赦なく突きつけられており、あくまでも現在と地続きな世界にある近未来であることは確かかもしれない。「分人」という著者の観点から読めば、関わっていく人々の変化に伴い主人公の中で占めていく分人に変化が生じていくことが一筋の光というか、やはり生身の人間との関わりの中で未来をどう切り開いていくか、、、そんなことを考えさせられた一冊でした。(M. K.)
* あらゆる想定が「仮想現実」として可能になる時代にあって、表題にある「本心」とはどういうことかを考えました。自分でこれが自分の本心だと思っていたことも、強制的な刷り込みではないか。他者との関係に依存したかもしれない。状況が変われば心も変わるのではないだろうか。全くもって「本心」は影響を受けやすく不確かなものだけれど、その心が決める「自由死」について同意できたら、「最愛の人の他者性」を受け入れたことになるのかなと思いました。(H.K.)
477 24/6/23 /『愛するよりも愛されたい 令和言葉・奈良弁で訳した万葉集』/ 佐々木良/ 一 はじめ/ 中島久代
(幹事より)
しばらく音沙汰がないと病気されたのでは、と気にかかります。対馬の穴子を肴に、そういう年代にkeysのメンバーがなったことを実感した会でした。
* 4,500以上の歌の一部ではあるが、全て感情表現がストレートでとてもわかりやすい。自らの恋しいレベルを「死」に例える歌が多いのに艶歌の原形を見るようである。また、当時の生活感が生々しく伝わる歌が多く、覗き見をしているような気持ちにさせるのは、現代語訳のおかげかしら。(N. N.)
* いくら「意訳」と言えども、「恋ふること 慰めかねて 出でて行けば 山を川をも 知らず来にけり」を「え? ここどこ?」はないでしょう。わたしだったら「恋心治まりかねてふらふらと野越え山越え妹(いも)は何処(いずこ)に」とでも。(M. Y.)
* 「あをによし 奈良の都は 咲く花の 薫ふがごとく 今盛りなり」は、小野老が遠い赴任先、地の果てとも思えた太宰府から奈良に戻り、ますます栄え賑やかで、行き交う人々も幸せそうで、この世の栄華を極める奈良の都へ、その地にいた誇りと今いる太宰府の侘しさと、一瞬の内に去来するないまぜの想いを読んだと思っていました。「アツい!」ではちょっと残念かな、と。万葉集という我がネイションが誇ることばの文化が、私には読めない原文より遥か遠くに去った感です。しかし他方で、スコットランド詩人ロバート・バーンズのキルマーノック版作品集を佐賀弁で全訳された翻訳者の執念の遊び心に似たものも感じました。(H. N.)
* 現代の若者が使っているという”w”や”#”の意味を今ひとつ理解していないことを差し引いても、やはり腑に落ちないまま読み終わりました。たとえ恋の歌であろうと、韻を踏んだり美しい枕詞や比喩を盛り込むことを通して、己の表現力を見せつけたいという知的欲が万葉歌人たちにはあったと想像します。この現代語訳にはそれが感じられませんでした。ただ、まろやかな関西弁の奈良弁はいいなと思いました。(H.K.)
476 21/5/23 /『銀河鉄道の父』/ 門井慶喜 /喜友/ 中竹尚子
* 今回「父」というフィルターを通しながら語られる「賢治」と家族の物語。妹「トシ」とのエピソードや没後その作品が認知された不遇の作家、という正直これまで私が抱いていた「賢治」像とは、はるかにかけ離れていて意外でもあったが、物語の随所に「賢治」という人物の片鱗が散りばめられており、最後まで興味が絶えなかった。Keysでも話題にあがった石集めに没頭する賢治「石っこ賢さん」の章、なるほど花巻の自然こそが彼の瑞々しい言語感覚と想像力を磨き、自然との交感を彼独特の表現によって後世に残すことになったのかも、、、なんて想像するのも実に楽しかった。(M.K.)
* 父親として、子への揺れ動く心情、看病時の溢れる愛情、進学を進めてしまう知性や教養への憧れ、これらは当時の財を成して家族を養うことを一義とする世間的な父親像との葛藤でもあった。その葛藤の先に、賢治やトシは類稀な才能を開花できた。(トシが長く生きていればと惜しまれます。)短命であったが宮沢賢治は、北上川の豊富な自然(石)や小学校の八木先生との出会い、妹トシと一緒に過ごした日々など、子供の頃に思う存分できたからこそ、童話や詩を後世に残すことができたのでは。と、親稼業は面白いと感じさせてくれました♪♪ (N.N.)
* 「これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。」これは宮沢賢治が書いた「注文の多い料理店」の序文で忘れられない一文だ。いつもの見なれた景色でも、賢治にはまるで宝石のように光って見え、その色や輝きを書かずにはいられなかった。賢治自身がもっている精霊のような純粋さと宗教的な背景が重なりながら賢治の詩や童話が生まれたのだと思う。そして、それらがきちんとした作品として世に出ることができたのは、粘り強く支援した父の存在が大きかったことをこの作品で知ることができた。(H.K.)
* Keysランチ会では「石っこ賢さん」を話題にして、子供時代の自然との触れ合いの中での「天然の想像力」が、やがて「ことばの人造宝石を作り上げ、賢治は詩人として、いや人間として、遺憾なき自立を果たした」ことを語り合ったが、一般の人間にとって、大人になるということはこの「天然の想像力」を失うことであるということを忘れまい。銀河鉄道の父親がわれわれに代わって、それを失う葛藤を見事に演じてくれたと思う。(M. Y.)
475 23/4/23/『芽むしり仔撃ち』/大江健三郎/Zoom/金城博子
* 大江健三郎氏二十代の作品とのこと。なんと冷徹で客観的な描写。心深くに突き刺さる不快感。場面は戦時中だが現代社会の人間性に潜むものが描かれている。感化院の子どもたち、疫病、朝鮮人、脱走軍人に対する恐ろしいほどの村人たちの閉鎖性、虐待、暴力。僕や弟、李、女の子に芽生える人間性に対する救いを悉く打ち砕いて小説は終わる。この小説は決して映像で観たくない。しかし、感性をより鋭敏にしなければ、このような惨状に加担してしまう可能性があるという恐怖も私は感じた。(N.N.)
* 読み始めた途端に懐かしい文体の香りが漂ってきた。今回の本は1958年に書かれているが、大学入学時(60年)の安保闘争から3年後の『性的人間』、その後長く続いた大学紛争時の『万延元年のフットボール』(67年)等々、大江は、政治的人間と性的人間の在り方を絶えず突き付ける存在であった。男女を問わず、その性器を「セクス」と表現し、人間が呼吸することと同次元に配置する発想は、その後の軟弱な小説群とは一線を画すものであることが、あらためて新鮮であった。(M.Y.)
* 極限状態におかれたら、人間は助け合うことではなく、排除し合うことを選んでしまうのか。感染症と閉鎖された村社会の中で、感化院の少年たち、脱走兵、村の大人たち、それぞれが見せる狡さや醜さは、異常な時代を生き抜くための術か。見捨てる者と見捨てられる者の立場が逆転すれば、人間は同じことをするのか。怒りと恐怖がもたらす緊張した場面が多かったが、つかの間の自由と幼い愛の目覚めの場面は美しく清らかで、大江文学の偉大さを感じた。(H.K.)
474/18/3/23/『私の恋人』/上田岳弘/月のしずく天神大丸店/末信みゆき
* 作家の世界観の大きさに圧倒されます。面白かったのは、二周目のイデオロギー間(アメリカとドイツ)の闘争、その終焉がユダヤ人収容所や日本への原爆投下。そして三周目、人類を凌駕する「彼ら(人口知能)」の出現。でも、その前に我々が突きつけられている現実、ロシアによる領土侵攻がある。闘う対象は誰にもわからないが、抗うべき時には抗わないといけない。そのように突きつけられた作品でした。(N. N.)
* クロマニョン人まで遡って人類の祖先の知性がどのようであったのかということは想像も及ばないが、私が目撃した中で最も古いアイルランドの先史時代の遺跡「ニューグレンジ」(紀元前3100年から紀元前2900年の間に建設)、「1年で最も日が短い冬至の明け方、太陽光が長い羨道に真っ直ぐ入射し、部屋の床を短時間だけ照らすように建設されている」、その数学的知性と言い、下って、古代エジプトのツタンカーメンと黄金のマスク(紀元前1341年頃 – 紀元前1323年頃)、イングランドのストーンヘンジ(紀元前2500年から紀元前2000年)等々、古代人の知能の高さには驚嘆するばかりである。いや、身近にもある。王墓など弥生時代(紀元前9、8世紀から紀元後3世紀ごろ)の遺跡が発掘されて展示されている「やよいの風公園」が毎日の犬との散歩コースであるが、人間より1,000倍〜10,000倍優れていると言われる犬の嗅覚、聴覚は、人間がその合理主義から失っていった本能的能力をクロマニョン人時代のまま持ち続けているという証拠であろう。滅亡の予言の中に救済の光を見出せない中、せめてそばにいる犬に寄り添って、少しでも原始の想像力を取り戻したいという気持ちであった。(M. Y.)
473/25/2/23/『ライオンのおやつ』/小川糸/米と葡萄 信玄/渡邊稔子
* 雫がレモン島に来て一月超の短い間、様々な出会いにより死と生に向き合い、揺れながら強くなっていく様が心に沁みました。死に際はマドンナのような方にそばにいてほしいですね。日曜日午後三時のおやつ、自分は何を求めるのか考えてしまいました。(N. N.)
* それまで生きてきた日々を振り返り、穏やかに日々を過ごす。最期の時を考えるのは、つまり今をどう生きるかなのでしょう。レモン島に行けなくても、自分にとってのライオンの家を見つけたいと思いました。最期のおやつは、ぜんざいをリクエストします。ことこと小豆の煮えるにおいが、幼い頃の大きな幸せでした。(T. W.)
* 私の生涯で最後に食べたいおやつは「ぐすぐす焼き」。小麦粉を水と砂糖で練って、生卵を1つ割り入れ、卵焼器で転がしただけの、素朴なおやつ。精神的に弱かった母が調子のいい時、しかも飼っている鶏が卵を産んだ時に作ってくれた。「ぐすぐす焼き」は滅多になかった母のゆとりのある笑顔に繋がっている。(H.N.)
* テレビドラマの舞台は別の場所だったようですが、最近カクテルに凝っていて、「瀬戸内海の西方、穏やかな自然に育まれた希望の島『中島』」産のライムを取り寄せて遊んでいることから、作品の舞台をその島と想像して読みました。主人公がタヒチ君を訪ねた最初の方の場面で、六花と一緒にごろんと横になって葡萄畑の向こうの海を眺めている。「どこからか、爽やかな柑橘の香りもする。」「目を閉じると、そよ風が、私に毛布をかけるような優しさで吹いてくる。」このような美しい文章で全編が紡がれていて、生命の尊さを慈しむ作者の眼差しに打たれました。(私の「最後に食べたいおやつ」は「バナナ」。昭和23年、重い病気で小学1年間を全休した私は、当時はとても高価で手に入らないようなバナナを、「精がつく」からと親が買ってきてくれて、以来今日まで、「バナナ」こそ最高の果物になっています。)(M. Y.)
* 読んことがある本を再読すると、前回とは違う思いになることはよく経験します。前回は、読みながら緩和ケアで見送った母の姿がよみがえりました。今回は、1人ひとりのおやつの描写をじっくり楽しむことができました。そして私なら何にするかなと今から考えています。(H.K.)
472/21/1/23/『あちらにいる鬼』/井上荒野/暖(はる)/勝野真紀子
久しぶりのリアルKeysならではの会話の醍醐味、嬉しい時間でした。
* 目の前のぶらぶらするものを眺めながら、髪を落とす前の最後の洗髪をしてもらうという場面には感動しました。この一節があるだけで、この作品は見事であったと評価したいと思います。(MY)
* じわりじわり真綿でがんじがらめにされているようで、ともすると、息苦しささえ感じてしまう昨今。人間はどうしようもなく不完全な生き物だという思いが年々増してくるのは何故だろう。人間は完璧になんてなれやしないのだ。そう思えばこそ、合わせ鏡のような「みはる」と「笙子」のどうしようもなくやりきれない情念、業の深さ、、、を作者のやわらかな文章の奥に感じたとき、倫理観云々ではない静かな読後感が印象的でした。(MK)
* 小説家は、命を削りながら書いているのだと感じました。読む前は、さぞ男と女のドロドロを描いているものと思っていました。実際は、篤郎とみはる、笙子の共通した意識、プライドの根拠である、小説、また自分自身に対する誠実さでした。(NN)
* ともすれば、スキャンダルにまみれた存在、出家しても切れない腐れ縁、腐れ縁を静かに受け入れた妻たるものの鏡、と受け取られかねない、みはると白木、白木と笙子の3人の関係を、作者はままならない時はあったとしても、この世に出会う定めの人、愛する定めの異性はいる、ということを人生の幸運として感謝する、テーマに仕立てている、と思いました。この視点は、作家として至った3人の関係への理解なのか、当事者たちの家族としての鎮魂なのか、その真意も知りたいとも思いました。(HN)
* 寂聴さんは「書いていいですよ。何でも喋るから!」と言ってくれたのだと、著者井上荒野さんのインタビュー記事を読んで、合点がいきました。本は二人の女性の視点で描かれていましたが、瀬戸内寂聴から聞いて描いた「みはる」よりも、亡くなってこの世にいない母を思い描いた「笙子」の感情の方が真に迫ってくると感じたからです。事実以上の真実があぶり出された小説だったと思いました。(HK)