2024年度
回 /開催日 /本 /著者 /店 /幹事
495 / 28/12/24/『塞王の楯(上)』/今村翔吾/中竹尚子
494 / 16/11/24/『水のかたち(下)』/宮本 輝/末信みゆき
* 綺麗だけれど甘すぎるお菓子をいただいて、塩が欲しくなる感じでした。横尾文之助が付け足しになってしまってもったいない気がしました。(M. S.)
* 無数の湧水の糸が滝壺に集まり、そこから川の流れが始まる。大井川の上流ではないがその景色を見た時の感動が蘇った。主人公は好意や幸運を無数に引き寄せ、それを悠然と受け止め、川の流れのように生き様を変えていく。周りの人々は支流のように好意を注ぎ、一緒に幸運の川の流れに乗っていく。幸運の連続に対して消化不良になったのも事実。このような主人公を描きたかった作者の意図も最後に記してあったが、小説としての難しさも感じた。 (N. N.)
* 著者が後書に言う「善き人たちのつながりによって生じたとしか思えない幸福や幸運の連鎖」の流れが果たして、今日の世界の危機的状況(一歩間違えれば第三次世界大戦、そして温暖化による地球の破滅)に身を置く読者に説得力があるだろうか。第二次大戦終戦前後の横尾文之助の苦闘だけが描かれていたら、余程違った読後感を抱いたであろう。(M. Y.)
493 / 26/10/24/『水のかたち(上)』/宮本 輝/博多廊 西中州/勝野真紀子
* しなやかな感性、男女の機微や尽きない好奇心に溢れた「枕草子」を読み終えた直後ということもあってか、「上巻」を読み終えた時点でやや謎の消化不良を起こしそうだったので、物語が一体どう収束されるのか…「下巻」まで一気に読み進めることにした。昔から読んできた宮本輝の作風とはかなり異質で最後まで小さな違和感が残る作品ではあった。一筋の水が別の一筋と交わり長い年月をかけて大きな流れとなったりまた長い年月をかけて伏流した水がある時地表に美しい水となって湧き出る様(水のかたち)を柔らかく醸し出す存在としての主人公志乃子、彼女から自然発生的に連鎖していく様々な人・物との繋がりやまたそれらに伴う環境の変化があまりにも突飛すぎたようだ。「下巻」でのコメントを待ちたいが、いずれにしても読後の賛否が大きく分かれる作品と言えよう。(M. K.)
* 日々の生活に余裕のない主婦という設定の主人公だが、なんと豊かな人間関係、多彩で幅広い芸術領域を存分に見せてくれる。茶碗、文机、人形、石が単なる物ではなくて、歴史的な時間軸に想いを馳せ、辛く切ない体験を蘇らせてくれる。この段階で私はもう満腹状態。下巻ではこれらの物たちの謎が徐々に解かれていくだろう。楽しみに読み進めていきたい。 (N. N.)
* 「、、、山のあちこちには、厚い土壌と夥しい木の根で濾過された美しい水が伏流して、それがどこかで地表に湧き出るのだ。その湧き出た水はわずかな一滴か二滴を岩陰にしたたらせるだけだが、長い年月のあいだに一筋の流れとなる。一筋は別の一筋と交わり、それはまた別の一筋と重なり、この白糸さんを作っている。 水はさらに白糸さんで幾条ものしたたりとなって、一個の丸い石を百二十五年かかって「リンゴ牛」へと彫刻したのだ。」という一節があるが、下巻では五十代に入った志乃子がこの先掘り続ける「水のかたち」に付き合わされるのだろうか?作者はかつて芥川賞選考委員を務めていた時、ノミネートされていたある作品について、「当事者たちには深刻なアイデンティティーと向き合うテーマかもしれないが、、、、他人事を延々と読まされて退屈だった」という選評をして物議を醸しているが、同じ言葉をこの作者にお返ししたい衝動を(今は)覚える。(M. Y.)
* ガラクタだと思ったら実は貴重な骨董茶碗、終戦の引揚げ時の手記が入った朝鮮の手文庫、思いを刻んだ跡が残る「りんご牛」の石…それらの物を手にしたことで生じる主人公とさまざまな人との出会い。まるでおもちゃ箱をひっくり返したかのように、いや主人公が主婦であるから裁縫箱をひっくり返したようにとでも表すべきか、気になる「物」と「人」があちらこちらに散らかっている感がする。それらは宮本輝お得意の「縁」ですっきり整理されるのであろうか。下巻に期待したい。(H. K.)
492 28/9/24 /『むかし・あけぼの 下 小説枕草子』/ 田辺聖子 /渡邉敏子
* 「そんなわけで、いまの私は、かなり何もかも充足してる、といっていい。自分の夫も子供も家庭もないけれど、中宮のいられるところが私の家庭で、夫の代わりに友人たちがあり、子供は、世間にみちみちていた。そしてそれらすべての上に、燃えるが如き私の好奇心があるのだ。退屈なんか、したことがなかった。」この言葉は、田辺聖子氏によるものだが、そこに込められた少納言の生き方に、強い共感を感じる。高い教養と美を持って中宮に仕える少納言は、まさに憧れ。定子を囲んで交わされる会話の数々。平安の世に生まれ、一女房として、少納言とともに中宮のおそばに仕えてみたいものだ。男女のこと、女の職場のあれこれ、政(まつりごと)のなかの争いなど、千年の時を超えても変わらない人の営みに、定子を真似て、くすりと笑ってみたい。(T. W.)
* 田辺聖子が描く清少納言。枕草子に描かれる感性、人々の共感と笑いを誘うやりとりの数々。小説の中にある「人を好きにならなければ、花も鳥も好きになれるはずはないのだ。男や女が面白いと思えばこそ、この世の美しいものを好きになれるのだ。」このフレーズが、両作者の真髄なのかと思う。人と人のやりとりの楽しさが何よりも当時の娯楽の醍醐味であり、それは現代の私たちにも通じ、これからも続いてほしいものですね。(N. N.)
* 上巻のコメントで私は、「肉体とか欲望とか」の無い斉信(ただのぶ)中将との知的遊戯の関係を高く評価したが、下巻では一転して清少納言が、別れた則光(のりみつ)がやってくれば関係するし、棟世との濡れ場:「『何をそわそわしている』と私を抱きしめてくれるが、たまたまその隣りの局に今宵は意地の悪い右衛門の君が泊っているのを知っている私は、胸の動悸がおさまらない。『小鳥みたいにどきどきさせて……そら』と棟世は笑みをふくんでいい、衿もとから手をすべりこませて私の胸乳(むなぢ)をそろっと抑える。『見られてるかもしれないわ』と私はいそいでささやき、すると若かったときにも経験しなかったような昂ぶりに、心が弾んで、、、」が赤裸々に伝えるように、彼女は十二分に性欲にも溢れていて、それこそが彼女のエネルギーであったのではないか。そしてこのことは、彼女が生涯尽くした中宮定子と主上の純愛を浮き上がらせる。「知る人もなき別れ路(ぢ)に今はとて/心細くも急ぎたつかな」「煙とも雲ともならぬ身なりとも/草葉の露をそれと眺めよ」ー定子の惜別の二首には読者も万感交到る思いになる。田辺聖子の手腕をこそ讃えるべきか。 (M. Y.)
* 平安時代は絵巻物語りのように華やかなイメージであったが、血なまぐさい政争あり、流行り疫病あり、窃盗誘拐が頻繁に起こるという不穏な時代でもあったのだ。そんな時代を生き、崇拝して止まない定子中宮は若くして亡くなられるという悲運も経験しながらなお、「人生の一瞬の情景―瞬景といったらよいか、あっという間に忘れ去られるこの世のさまざまな角度に光をあててすばやく手の中に捉えた情景」を書くことにした清少納言。しなやかな感性、男とも対等にわたり合う才気、老いた晩年を才女の末路と指さされてもめげない意気の強さ、そのような女性に描かれた清少納言像はとても新鮮で、すがすがしく感じられたのだった。(H.K.)
491 31/8/24 /『むかし・あけぼの 上 小説枕草子』/ 田辺聖子 /中島久代
* Keysランチ会で、この本の内容の現代にも通じる素晴らしさについてひとしきり話題になったが、私もまったく同感で、一例を挙げると、斉信(ただのぶ)中将との関係である。二人とも囲碁が好きで、碁盤を囲むこともあったというが、二人の間の隠喩として、男と女の間の噂話に囲碁用語を用いて、「男に先手をとられた」とか、「駄目を打った」などといい、男が女にあたまが上らないと、「男は何目かおいてる」などという。拍手喝采である!斉信卿の知的遊戯の罠であることを承知の上で展開する二人の会話は秀逸である。「私と斉信の君はつまり、そういう罠をしかけあうことに恋している間柄なのである。実体のある恋、肉体とか欲望とか、嫉妬、心と体のほとんど一体なる疼き、といった、そういうたぐいのものではないのだった。」この一節に私は、現代のどのような作家にも負けない清少納言の鋭い知性と感性を感じた次第である。 (M. Y.)
* 「男というものは(女もそうだろうけれど)なんと千差万別!」と語る清少納言には、人の千差万別が面白く興味深くてたまらない。「うれしくてぞくぞくはしても、実体のある恋ではない。肉体とか欲望とか、嫉妬、心と体のほとんど一体なる疼きといった、そういうたぐいのものではない」関係を、言の葉を身に沁みながら「わかり合える人」と「たしかめ合う」おもしろさを平安に生きる清少納言は求めている。そんな関係を私も求めたいと今しみじみ思うものだ。(H.K.)
490 27/7/24 /『忘れられた日本人』/ 宮本常一 /あじ正/中島久代
* それぞれの生き様を各地の年寄りから丁寧に聞き取り文章にされたもの。村の寄り合いで、意見が出尽くし納得するまで何日も話し合うさま。村の若い女性が家を出て奉公し稼いだお金で世間を知ろうと都会に遊びにいく慣習。
「文字に縁の薄い人たちは、自分をまもり、自分のしなければならない事は誠実にはたし、また隣人を愛し、どこか底抜けに明るいところを持っており、また共通して時間の観念に乏しかった。」これは「文字をもつ伝承者(一)」の章にある作者の一文であるが、私自身この本で紹介された人たちに新しい発見があり愛おしさを感じた。(N. N.)
* 結婚を前提としない「夜這い」が迎える女の側にもその家族にも暗黙の了解ごとであって、それでも開けようとする戸の軋む音を消すための放尿の知恵、田植え仕事をはかどらすための女どもの猥談、モンペを履かなかった時代を田の神様(タノカンサァ)は喜んでいたこと、若者への性教育のための年増女の「観音開き」etc. etc.、いずれもユーモア溢れる翁らの語りを見事に復元している。身分を問わず、男女を問わず、性をめぐる大らかさは源氏物語然り、浮世絵然り、宮本が収集した各地の風俗然り、これぞ「忘れられた日本人」の往年の素晴らしさ、大らかさであろう。
山口県豊浦郡内日(ウツイ)という山に囲まれた小さな村では、年配のオバサンが道端で立ったまま尻を捲って用を足す光景を日常的に目撃していたものだが、その地で小・中・高を共に過ごしたN君は周防大島の大島商船(高専)に勤め、定年後もその地に骨を埋めるようである。瀬戸内海に浮かぶその島が今回の著者の生誕の地であり、「宮本常一記念館」がある。昨年訪問した生口島も瀬戸内海に浮かぶ島で、そこは平山郁夫の生誕地で、見事なスケールの「平山郁夫美術館」がある。瀬戸内海に浮かぶ温暖な島々こそ、このような汚れない魂を育てるのだろうか。 (M. Y.)
* 日本の辺境にいながら、それでいて確かに日本を支えていたとも言える農民、漁民、山の民、馬喰、世間師、女性たち…。特に派手な出来事の話ではなくとも、淡々とした話の中には今や古老になった人々の人生が詰まっている。閉ざされた土地で黙々と日々を送るなか、農作業中には女性陣はなんともおおらかに猥談で盛り上がり、男達は寄り合いで村の大事なことをゆっくりと時間をかけて決めていく。私小説のような語り口で始まる『土佐源氏』では、近代的な行為で富の力を誇示することが性愛の障害になりむしろ前近代的で無為の存在の方が性愛に向いていたことが、粗野な言葉使いの中に現代にも通じる情緒だと感じた。
商家である私の実家は大正5年生まれの祖父が、町から村へと食料品を売る今で言う移動販売から始めた。今では考えられない距離(博多津~箱崎~名島)をリヤカー引いてまわったという祖父の時代の話をもっと聞いておけばよかった。(H.K.)
489 29/6/24 /『犬婿入り』 /多和田葉子 /カフェコントレイル(ホテルJALシティ福岡天神)/ 山中光義
* 「献灯使」で多和田葉子の地球全体を包み込むような壮大な視点を感じ、鎖国のように閉ざされた中で格闘している日本の現状について考えさせられた。その感覚を持ったまま「犬婿入り」を読み、30年前に書かれた初期の作品でありながら内容はショッキングでよくわからない。置いてきぼりに感じて思わず読み直す。そうやってじわじわと、この女主人公「北村みつこ」は、多和田葉子そのものではないかと感じ始める。国境、男女間、人間とそれ以外(犬や狐は神の化身?)まであらゆる境目がなく、全てを受容できてしまう存在。何故かその姿はこれほどに異様が付き纏うように描かれている。不思議な作家さんに出会ったものだと私はまだまだ消化できずにいる。 (N. N.)
* 〈ペルソナ〉異なる文化の間に生きる人間たちの所作が、時に息苦しく時に滑稽に感じた。主人公が探し求める「変圧器」がそれを象徴していたと思う。変圧器などどこにも売ってないかもしれないのに。〈犬婿入り〉塾の先生という一見お堅い職業のみつこ先生。犬的に振る舞う男性を落ち着いて受け入れ、性的な事に好奇心旺盛の子どもたちに呑気に反応する姿がとりとめなく色っぽい。両作品とも多和田氏らしい予測できない言葉の繋がりで何とも幻想的だった。(H.K.)
* 独白形式ではないが、この作品を19世紀後半から20世紀前半にかけて一世を風靡した「意識の流れ」の小説として読むと、延々と続く一文の長さ、突然の太郎の出現、乳房には全く愛着が無くストレートな彼の性行為、ニオイに対する変質的固執、他方で、「ティッシュ」の節約的な使い方、庭の草取り、家の掃除、夕食作りなどの有難い太郎の献身等々の日常の全てが、「犬婿入り」の民話を子供たちに語って聴かせる「北村先生」の「無意識の流れ」として面白く追走できるのである。(M. Y.)
488 25/5/24/ 『燕は戻ってこない』 /桐野夏生 /海山亭 /渡邉稔子
* 世の中には、どんなに望んでも、努力しても、叶わないことがある。その究極が命に関わること。生きていることは、何かが欠けていることを受け入れていく過程だと思っていた。登場人物それぞれの気持ちが整理されないまま、物事だけが進んでいく不気味さのなかで、主人公が最後に自分の意思で行動したことに、少し救われた気がした。
定年という通過点を越え、いつも見守ってくれるメンバーの眼差しの暖かさに、人生の続きがますます楽しみになりました。(T. W.)
* 家庭でも学校でも性教育などおよそ無縁の時代に育った世代の人間としては、この本の内容は最初から最後まで殺伐としたものであった。何故ならば、そこには、昔存在した、喜怒哀楽ない混ぜにした性をめぐる想像力の働き(=物語)が皆無だからである。作者の誠意は、ストーリーがあるから歌麿が好きだというりりこの設定であろう。原子爆弾の発明が人類の存続を脅かしているが、「生殖テクノロジー」の進歩が人類の滅亡への道を切り開いて行かないことを願いたい。(M. Y.)
* 読書中に「NHKスペシャル ヒューマン 性の欲望」を観る機会があった。番組で、人は四足歩行から二足歩行になって女性の子宮が小さくなり多産できなくなったので、他の種と違い「発情期」がなく常に愛し合うようになったという。生む自由、生まない自由、セックスをしない自由もあるが、悠久の「性の歴史」を現代人の「自由」で破壊してしまってよいものだろうか。けれど代理母の主人公が本当の「母」になろうとした結末には、燕にも戻ってこないという「自由」があってもよいと思った。(H.K.)
* 日々の生活に疲れた女子同士のさりげない会話が発端で、不安を感じながらも一線を超える代理母に足を踏み入れることになる。佳子叔母に象徴される結婚や出産への憧れが根本にあるものの、悠子やりりこなどともぶつかりながら、リキは様々な性の価値観を受け止めていく。リキがビジネスとして代理母を全うしながら、自問自答を繰り返し、自分に正直で逞しくなる様は爽快で救いでもあった。(N. N.)
* とっこちゃんのコメント「生きていることは、何かが欠けていることを受け入れていく過程」は心に深く染みました。久しぶりに桐野夏生の、生命を縦糸に、格差社会を横糸に、人故のグロテスクさと、それが生む悲しみを抉り出すような物語を堪能しました。必要を超えた願いを実現しようと他者の人格も尊厳も置き去りにする草桶夫妻と、最低限の必要を満たしたいと自らの尊厳を置き去りにするリキ。彼らが目をそらそうとするグロテスクさと表裏一体の悲しみを、はっきりと指摘するのは春画家りりこのみ。リキがぐらを連れて旅立つ最後は、リキの尊厳の取り戻しであり、自分の人生を選び取る出発と映ります。しかし、この物語が同時に問う子の権利とは、は未決のまま。ぐらの魂はどこに?子は親のもの? (H. N.)
* 日本の辺境にいながら、それでいて確かに日本を支えていたとも言える農民、漁民、山の民、馬喰、世間師、女性たち…。特に派手な出来事の話ではなくとも、淡々とした話の中には今や古老になった人々の人生が詰まっている。閉ざされた土地で黙々と日々を送るなか、農作業中には女性陣はなんともおおらかに猥談で盛り上がり、男達は寄り合いで村の大事なことをゆっくりと時間をかけて決めていく。私小説のような語り口で始まる『土佐源氏』では、近代的な行為で富の力を誇示することが性愛の障害になりむしろ前近代的で無為の存在の方が性愛に向いていたことが、粗野な言葉使いの中に現代にも通じる情緒だと感じた。
商家である私の実家は大正5年生まれの祖父が、町から村へと食料品を売る今で言う移動販売から始めた。今では考えられない距離(博多津~箱崎~名島)をリヤカー引いてまわったという祖父の時代の話をもっと聞いておけばよかった。(H.K.)
487 20/4/24/『おはん』/宇野千代/まな板の上の旬 ぽぽぽん/勝野真紀子
久しぶりのゲストとこの春新たな門出を迎え終始にこやかなTさん、時間に左右されることなく自由自在に時間を満喫できる幸せを語る顔が輝いていたのがとても印象的な夜でした。
* 情けないくらい柔弱でだらしのないやさ男(私)自分の身に起こった出来事を独特の語り口で淡々と懴悔のように語られているのがいかにもリアルで巧みである。対照的な二人の女の「情」に絆されながらも、なれるはずもない真人間になることを束の間でも願う語り手(私)が愚かだと誰が言えよう。似たような過ちをいつの世も男と女は懲りずに繰り返し繰り返しおかしながら生きているのではないだろうか。(M. K.)
* 柔和な言葉遣い、行動は優柔不断で煮えきれず、それでいて自分の行動を冷静に分析し顛末を客観的に語る男。そんな男を愛おしく思い通す「おはん」は全く嫌ごとを言わない女。現実に置き換えるとこの行動は違和感が拭えないが、まるで上方歌舞伎の和事を鑑賞しているような世界観。「情」で動くその思いをいかに表現できるか、多くの人を惹きつける何かがここにある。(N. N.)
* タイプは違えどそれぞれに強い女と、優柔不断で弱いことこの上ない語り手の男は、時代を先取りした作家の先見の明か。いや、紫式部の時代からの普遍のリアリティか。「『男のいらんおひとは、どこの国なと行たらええ。あては男がいるのや、男がほしいのや、』とはばかり気ものう言うては寄り添うてくるおかよ」とは、尾崎士郎、梶井基次郎、東郷青児、北原武夫などとの華やかな恋愛模様を描いてきた作者の肉声か。(M. Y.)
* Keysでは二度目の宇野千代。初回作品「色ざんげ」とも共通するのは、「おなごに食わしてもろうてるしがない男」の語り口で物語は進み、男に誠実さは全く感じられないということ。違うのは「おはん」の登場人物たちのねっとりとした言葉づかいで、それがこの物語の本領と感じる。自身の幸福と子どものことを思えば、身勝手な男に恨みごとのひと言でも出ておかしくないところを、夫婦になって一緒にいるよりもなお男からいとしいと思われたであろう「仕合わせ」を文にして伝えるおはん。いじらしく思う男は一生悔やんで過ごすことになる。これこそねっとりとした復習ではないか。派手に泣きわめくよりずっと怖ろしいと思った。(H.K.)
486 3/24/『BLANK PAGE 空っぽを満たす旅』/内田也哉子/千葉敦子
* 長年強い関心を抱いてきた俳優樹木希林を思いがけない角度から眺める機会を得た本であった。演技する彼女と普段の彼女にギャップが無いことも再確認できた。「外国では誰にでも、平然と日本語で語りかけ、同じ人間なら必ず心が通じるという思い込みたるや相当なもの」という一節は、我が亡き母を思い出させた。一時期我が家によく出入りしていたイギリス人がいたが、夕食の席で彼女は躊躇いも無く日本語で色々と話しかけていたものである。「言葉」本来の機能とは何たるかを教えられたものである。 (M. Y.)
* 「母や父という自分の中で大きくなりすぎた存在からの独立の願いも込めて始めた」作者と著名ゲストとの対談。あえて迂回したつもりでも「母の面影」「父の残像」をなぞる自分がいることに作者は気がついている。私自身、亡母の年を越してからより一層、その面影や残像に思いを馳せる瞬間が増えたと実感しつつあるのだった。もちろん我が父母は名も無い市井の人であるが。対談では、養老孟司氏の、人に死ぬ瞬間があるとすればそれは「社会の取り決めにすぎない」の言葉が印象に残る。死そのものが個人的なものとして受け止められたのだった。(H.K.)
* 他に類のない「個」を貫いた表現者であった両親が亡くなり、ぽっかり空いた心の中に、対談相手の様々な表現者の言葉を噛み締めながら、両親の存在に面と向かって対峙し、自分の中に深くあるものを掴み取り、言葉として表に出していきたいという足掻きを感じた。それが魅力となり伝わってくる。それぞれの対談者は、私が初めて知る人もあり、彼女の力がなければこれほど心の深層を吐露しないであろう。石内都や窪田誠一郎など、私がこの本で得た新たな出会い。衝撃なバックボーンに足掻き複雑な思いを持ちつつ淡々と清々しく生きる様、幾つになっても自分はまだまだと思い知らされる。(N. N.)
* 樹木希林と本木雅弘に関心があって手に取ったのだけど、それよりは自分の中にもある空っぽに気付かされることになった本だった。その空っぽの満たし方は本当に人それぞれで、それがその人の生きる姿勢であり、ひいてはその人の最期の迎え方にもつながっていくのかもしれないと感じた。還暦を過ぎ、生活が大きく変わる転機にあって、もう一度自分を見直してみたい、そんな気にさせられた。(A. C.)
485 2/24/『献灯使』/多和田葉子/金城博子
* 東日本大震災直後の風景、放射能汚染で立入禁止となる村や町、東京でさえも子どもの放射能汚染を心配する声が多かった。その記憶が一気に甦る。そこから発想を広げたら「献灯使」の描く世界になるのだろうか。あれから10年以上経過した今、あの恐怖はなんだったのか。人間の営みがもたらす原子力への依存、地球温暖化、無差別殺戮の戦争など次々に馬鹿げた行為が頭をよぎる。なんで止められないのかとうんざり。(N.N.)
* 有吉佐和子の『恍惚の人』(1972)が、「認知症」という言葉をその後を生きる我々の「日常語」として定着させていったように、多和田の『献灯使』(2018)も、近未来の人間社会を予告している怖さを感じさせた。「言葉の寿命はどんどん短くなっていく。、、、古くさいというスタンプを押されて次々消えていく言葉の中には後継者が無い言葉もある。」とか、男の子が女性化し、女の子が男性化する、等々は既に現実化しており、人類消滅の後、人間の影響を受けて文明化したというイヌがクマとの対話で、少年の匂いがする靴を草むらに隠して、匂いを嗅いでエクスタシーに浸っていると言っているが、我が家の犬は女飼い主のスリッパを毎日(それも二、三足)自分の寝ぐらに隠して舐め回している。ロバート・キャンベルとの対談の中で多和田は、「私はものを考える時に、言葉に手伝ってもらうことがあるんです。それは、言葉は私よりずっと長く生きているせいか、私とは比べものにならないくらい知恵があって、私にはとても思いつかないようなアイデアを与えてくれるから。」と言っているが、作品の最初から最後まで、緩みの無い言葉に溢れている。(M. Y.)
* 働き手の中心となる現役世代が、今より2割近く減ると言われている「八かけ社会」の特集記事(2024年1月1日付朝日)で、本作が紹介されていたのだが、読んでみると、東日本大震災に触発された作品という方が腑に落ちる。震災のあの日、東京のはずれにいても支えがなければ立っていられないほどの揺れを感じ、直後の原発事故によって、ゾワリとした世紀末的な感覚が確かにあったことを思い出しもした。人は言葉によって世界観を共有する。だがこの作品に登場する人物たちが繰り出す言葉は、縦横無尽に絡み合い、時には外し合う。それでいて争わず、お互いを静かに受け入れている。今の社会はその逆だ。言葉を理解し合っているようで、目には見えない心の状態を理解する思いやりが欠けている。世界の自国主義を見ていると、この作品で日本がとった「鎖国政策」は今を予見しているようだ。歯医者の場面で老人が「細胞がどのくらい破壊されているか、調べているんですよね。」と言うセリフを通いの歯科の診察台で思い出し、クスリと笑うかもしれないが、、、。(H.K.)
484 21/1/24/『青い壺』/有吉佐和子/広東料理セッション/中竹尚子
*「うまい。うまいこと古色ついたわ。これであんた焼酎につけて床下へ入れとけば、半年で江戸初期というて通りまんねんで」という第1話の道具屋の自慢が、最終第13話での「僕は古美術の鑑定では、日本で一、二といわれている男だよ」という「評論家」氏の「自慢の恥」で結ばれるという見事な仕組みである。「往時の陶工が決して作品に自分の名など彫らなかったように、自分もこれからは作品に刻印するのはやめておこう」という結びの言葉が重い。第9話の同窓会顛末は秀逸。 (M. Y.)
* 一つの青磁の花瓶を巡る評価は全13話で様々。これが登場人物たちの育ちや生き様と相まって面白い。また、そこに隠れている社会問題を、当時としては先端的な観点で、皮肉混じりにさらりと描く。作者にあっぱれと言いたくなる。第一話で、作った本人でさえ、土と炎と釉薬が織りなす偶然の産物であるその青い色に惚れ惚れと感じたほどのもの。どんな青だろう。古色がついていないその姿を私は見たいと思った。(N. N)
* 現代の陶工が創作した優れて美しい青い壺。底に名さえ焼いてあれば、現代の名品として後世に真価が問われ、創作者の技を伝えて知名度を上げ、日本の陶磁の伝統を塗り替えたかもしれない青い壺。しかし、観る目のあるなしにかかわらず、工芸品を売買する人、定年の夫が重荷な人、没落した旧家の医者とその母など、それぞれに昭和を象徴する人々の手で翻弄され、古代の名器の仮面を被せられた壺。壺は偶然を生きる我々そのもの。オムニバス式の視点も、登場人物たちのことばも、ユーモアと皮肉が同居して、有吉佐和子の真骨頂が楽しめた。 (H. N.)