回 /開催日 /本 /著者 /店 /幹事
496 / 25/1/25/『塞王の楯(下)』/今村翔吾/ /千葉敦子
回 /開催日 /本 /著者 /店 /幹事
496 / 25/1/25/『塞王の楯(下)』/今村翔吾/ /千葉敦子
2024年度
回 /開催日 /本 /著者 /店 /幹事
495 / 28/12/24/『塞王の楯(上)』/今村翔吾/広東料理セッション/中竹尚子
* 飛田屋・山方小組頭段蔵の「互いに支え合って一つのものを造るということ、目立った功績の裏には目立たずとも礎となる者がいること、ふと石垣と人は似ているのかもしれない」という感慨は、信長、秀吉、家康と続く歴史の表舞台の背後を「城の石垣」という視点で描くという、直木賞の本領発揮と言うべく見事な作品だと思う。(M. Y.)
* 戦国時代、究極の盾を目指す城の石垣。爆発力の強化を追求する鉄砲。これまで武将の勲功と戦略で語られてきた時代を、職人の技の積み上げと平和を求める魂で進化する技術者集団同士の戦いとして描く。現在は兵器の進化が突出し、核の抑止力のみに頼る危うい時代。盾と矛が拮抗した戦国時代の物語に今を考えさせられる。下巻では大津城での戦いが描かれる。郷土のヒーロー立花宗茂の活躍も楽しみである。(N.N.)
494 / 16/11/24/『水のかたち(下)』/宮本 輝/末信みゆき
* 綺麗だけれど甘すぎるお菓子をいただいて、塩が欲しくなる感じでした。横尾文之助が付け足しになってしまってもったいない気がしました。(M. S.)
* 無数の湧水の糸が滝壺に集まり、そこから川の流れが始まる。大井川の上流ではないがその景色を見た時の感動が蘇った。主人公は好意や幸運を無数に引き寄せ、それを悠然と受け止め、川の流れのように生き様を変えていく。周りの人々は支流のように好意を注ぎ、一緒に幸運の川の流れに乗っていく。幸運の連続に対して消化不良になったのも事実。このような主人公を描きたかった作者の意図も最後に記してあったが、小説としての難しさも感じた。 (N. N.)
* 著者が後書に言う「善き人たちのつながりによって生じたとしか思えない幸福や幸運の連鎖」の流れが果たして、今日の世界の危機的状況(一歩間違えれば第三次世界大戦、そして温暖化による地球の破滅)に身を置く読者に説得力があるだろうか。第二次大戦終戦前後の横尾文之助の苦闘だけが描かれていたら、余程違った読後感を抱いたであろう。(M. Y.)
* 上巻の読後コメントに、あちらこちらに散らかっている「人」と「物」がすっきり整理されるのか下巻に期待するとしていたのだけど…。古美術に目利きの才があると描かれた主人公は、成功している経営者から信頼されて骨董品を扱う喫茶店を任され、そのために教えを乞う珈琲一筋40年の喫茶店店主から惚れられ、気になっていた手文庫の持ち主も探すとすぐに見つかる。善き人は善き人とつながる都合のよい「縁」を読まされたのか。あとがきで作者は、戦後の北朝鮮からの命がけの逃避行の手記と「小説との合体を目論み」をしたという。もし私が宮本の編集担当であったらそれぞれの逸話を短編にすることすすめたのだが。(H.K.)
493 / 26/10/24/『水のかたち(上)』/宮本 輝/博多廊 西中州/勝野真紀子
* しなやかな感性、男女の機微や尽きない好奇心に溢れた「枕草子」を読み終えた直後ということもあってか、「上巻」を読み終えた時点でやや謎の消化不良を起こしそうだったので、物語が一体どう収束されるのか…「下巻」まで一気に読み進めることにした。昔から読んできた宮本輝の作風とはかなり異質で最後まで小さな違和感が残る作品ではあった。一筋の水が別の一筋と交わり長い年月をかけて大きな流れとなったりまた長い年月をかけて伏流した水がある時地表に美しい水となって湧き出る様(水のかたち)を柔らかく醸し出す存在としての主人公志乃子、彼女から自然発生的に連鎖していく様々な人・物との繋がりやまたそれらに伴う環境の変化があまりにも突飛すぎたようだ。「下巻」でのコメントを待ちたいが、いずれにしても読後の賛否が大きく分かれる作品と言えよう。(M. K.)
* 日々の生活に余裕のない主婦という設定の主人公だが、なんと豊かな人間関係、多彩で幅広い芸術領域を存分に見せてくれる。茶碗、文机、人形、石が単なる物ではなくて、歴史的な時間軸に想いを馳せ、辛く切ない体験を蘇らせてくれる。この段階で私はもう満腹状態。下巻ではこれらの物たちの謎が徐々に解かれていくだろう。楽しみに読み進めていきたい。 (N. N.)
* 「、、、山のあちこちには、厚い土壌と夥しい木の根で濾過された美しい水が伏流して、それがどこかで地表に湧き出るのだ。その湧き出た水はわずかな一滴か二滴を岩陰にしたたらせるだけだが、長い年月のあいだに一筋の流れとなる。一筋は別の一筋と交わり、それはまた別の一筋と重なり、この白糸さんを作っている。 水はさらに白糸さんで幾条ものしたたりとなって、一個の丸い石を百二十五年かかって「リンゴ牛」へと彫刻したのだ。」という一節があるが、下巻では五十代に入った志乃子がこの先掘り続ける「水のかたち」に付き合わされるのだろうか?作者はかつて芥川賞選考委員を務めていた時、ノミネートされていたある作品について、「当事者たちには深刻なアイデンティティーと向き合うテーマかもしれないが、、、、他人事を延々と読まされて退屈だった」という選評をして物議を醸しているが、同じ言葉をこの作者にお返ししたい衝動を(今は)覚える。(M. Y.)
* ガラクタだと思ったら実は貴重な骨董茶碗、終戦の引揚げ時の手記が入った朝鮮の手文庫、思いを刻んだ跡が残る「りんご牛」の石…それらの物を手にしたことで生じる主人公とさまざまな人との出会い。まるでおもちゃ箱をひっくり返したかのように、いや主人公が主婦であるから裁縫箱をひっくり返したようにとでも表すべきか、気になる「物」と「人」があちらこちらに散らかっている感がする。それらは宮本輝お得意の「縁」ですっきり整理されるのであろうか。下巻に期待したい。(H. K.)
492 28/9/24 /『むかし・あけぼの 下 小説枕草子』/ 田辺聖子 /渡邉敏子
* 「そんなわけで、いまの私は、かなり何もかも充足してる、といっていい。自分の夫も子供も家庭もないけれど、中宮のいられるところが私の家庭で、夫の代わりに友人たちがあり、子供は、世間にみちみちていた。そしてそれらすべての上に、燃えるが如き私の好奇心があるのだ。退屈なんか、したことがなかった。」この言葉は、田辺聖子氏によるものだが、そこに込められた少納言の生き方に、強い共感を感じる。高い教養と美を持って中宮に仕える少納言は、まさに憧れ。定子を囲んで交わされる会話の数々。平安の世に生まれ、一女房として、少納言とともに中宮のおそばに仕えてみたいものだ。男女のこと、女の職場のあれこれ、政(まつりごと)のなかの争いなど、千年の時を超えても変わらない人の営みに、定子を真似て、くすりと笑ってみたい。(T. W.)
* 田辺聖子が描く清少納言。枕草子に描かれる感性、人々の共感と笑いを誘うやりとりの数々。小説の中にある「人を好きにならなければ、花も鳥も好きになれるはずはないのだ。男や女が面白いと思えばこそ、この世の美しいものを好きになれるのだ。」このフレーズが、両作者の真髄なのかと思う。人と人のやりとりの楽しさが何よりも当時の娯楽の醍醐味であり、それは現代の私たちにも通じ、これからも続いてほしいものですね。(N. N.)
* 上巻のコメントで私は、「肉体とか欲望とか」の無い斉信(ただのぶ)中将との知的遊戯の関係を高く評価したが、下巻では一転して清少納言が、別れた則光(のりみつ)がやってくれば関係するし、棟世との濡れ場:「『何をそわそわしている』と私を抱きしめてくれるが、たまたまその隣りの局に今宵は意地の悪い右衛門の君が泊っているのを知っている私は、胸の動悸がおさまらない。『小鳥みたいにどきどきさせて……そら』と棟世は笑みをふくんでいい、衿もとから手をすべりこませて私の胸乳(むなぢ)をそろっと抑える。『見られてるかもしれないわ』と私はいそいでささやき、すると若かったときにも経験しなかったような昂ぶりに、心が弾んで、、、」が赤裸々に伝えるように、彼女は十二分に性欲にも溢れていて、それこそが彼女のエネルギーであったのではないか。そしてこのことは、彼女が生涯尽くした中宮定子と主上の純愛を浮き上がらせる。「知る人もなき別れ路(ぢ)に今はとて/心細くも急ぎたつかな」「煙とも雲ともならぬ身なりとも/草葉の露をそれと眺めよ」ー定子の惜別の二首には読者も万感交到る思いになる。田辺聖子の手腕をこそ讃えるべきか。 (M. Y.)
* 平安時代は絵巻物語りのように華やかなイメージであったが、血なまぐさい政争あり、流行り疫病あり、窃盗誘拐が頻繁に起こるという不穏な時代でもあったのだ。そんな時代を生き、崇拝して止まない定子中宮は若くして亡くなられるという悲運も経験しながらなお、「人生の一瞬の情景―瞬景といったらよいか、あっという間に忘れ去られるこの世のさまざまな角度に光をあててすばやく手の中に捉えた情景」を書くことにした清少納言。しなやかな感性、男とも対等にわたり合う才気、老いた晩年を才女の末路と指さされてもめげない意気の強さ、そのような女性に描かれた清少納言像はとても新鮮で、すがすがしく感じられたのだった。(H.K.)
491 31/8/24 /『むかし・あけぼの 上 小説枕草子』/ 田辺聖子 /中島久代
* Keysランチ会で、この本の内容の現代にも通じる素晴らしさについてひとしきり話題になったが、私もまったく同感で、一例を挙げると、斉信(ただのぶ)中将との関係である。二人とも囲碁が好きで、碁盤を囲むこともあったというが、二人の間の隠喩として、男と女の間の噂話に囲碁用語を用いて、「男に先手をとられた」とか、「駄目を打った」などといい、男が女にあたまが上らないと、「男は何目かおいてる」などという。拍手喝采である!斉信卿の知的遊戯の罠であることを承知の上で展開する二人の会話は秀逸である。「私と斉信の君はつまり、そういう罠をしかけあうことに恋している間柄なのである。実体のある恋、肉体とか欲望とか、嫉妬、心と体のほとんど一体なる疼き、といった、そういうたぐいのものではないのだった。」この一節に私は、現代のどのような作家にも負けない清少納言の鋭い知性と感性を感じた次第である。 (M. Y.)
* 「男というものは(女もそうだろうけれど)なんと千差万別!」と語る清少納言には、人の千差万別が面白く興味深くてたまらない。「うれしくてぞくぞくはしても、実体のある恋ではない。肉体とか欲望とか、嫉妬、心と体のほとんど一体なる疼きといった、そういうたぐいのものではない」関係を、言の葉を身に沁みながら「わかり合える人」と「たしかめ合う」おもしろさを平安に生きる清少納言は求めている。そんな関係を私も求めたいと今しみじみ思うものだ。(H.K.)
490 27/7/24 /『忘れられた日本人』/ 宮本常一 /あじ正/中島久代
* それぞれの生き様を各地の年寄りから丁寧に聞き取り文章にされたもの。村の寄り合いで、意見が出尽くし納得するまで何日も話し合うさま。村の若い女性が家を出て奉公し稼いだお金で世間を知ろうと都会に遊びにいく慣習。
「文字に縁の薄い人たちは、自分をまもり、自分のしなければならない事は誠実にはたし、また隣人を愛し、どこか底抜けに明るいところを持っており、また共通して時間の観念に乏しかった。」これは「文字をもつ伝承者(一)」の章にある作者の一文であるが、私自身この本で紹介された人たちに新しい発見があり愛おしさを感じた。(N. N.)
* 結婚を前提としない「夜這い」が迎える女の側にもその家族にも暗黙の了解ごとであって、それでも開けようとする戸の軋む音を消すための放尿の知恵、田植え仕事をはかどらすための女どもの猥談、モンペを履かなかった時代を田の神様(タノカンサァ)は喜んでいたこと、若者への性教育のための年増女の「観音開き」etc. etc.、いずれもユーモア溢れる翁らの語りを見事に復元している。身分を問わず、男女を問わず、性をめぐる大らかさは源氏物語然り、浮世絵然り、宮本が収集した各地の風俗然り、これぞ「忘れられた日本人」の往年の素晴らしさ、大らかさであろう。
山口県豊浦郡内日(ウツイ)という山に囲まれた小さな村では、年配のオバサンが道端で立ったまま尻を捲って用を足す光景を日常的に目撃していたものだが、その地で小・中・高を共に過ごしたN君は周防大島の大島商船(高専)に勤め、定年後もその地に骨を埋めるようである。瀬戸内海に浮かぶその島が今回の著者の生誕の地であり、「宮本常一記念館」がある。昨年訪問した生口島も瀬戸内海に浮かぶ島で、そこは平山郁夫の生誕地で、見事なスケールの「平山郁夫美術館」がある。瀬戸内海に浮かぶ温暖な島々こそ、このような汚れない魂を育てるのだろうか。 (M. Y.)
* 日本の辺境にいながら、それでいて確かに日本を支えていたとも言える農民、漁民、山の民、馬喰、世間師、女性たち…。特に派手な出来事の話ではなくとも、淡々とした話の中には今や古老になった人々の人生が詰まっている。閉ざされた土地で黙々と日々を送るなか、農作業中には女性陣はなんともおおらかに猥談で盛り上がり、男達は寄り合いで村の大事なことをゆっくりと時間をかけて決めていく。私小説のような語り口で始まる『土佐源氏』では、近代的な行為で富の力を誇示することが性愛の障害になりむしろ前近代的で無為の存在の方が性愛に向いていたことが、粗野な言葉使いの中に現代にも通じる情緒だと感じた。
商家である私の実家は大正5年生まれの祖父が、町から村へと食料品を売る今で言う移動販売から始めた。今では考えられない距離(博多津~箱崎~名島)をリヤカー引いてまわったという祖父の時代の話をもっと聞いておけばよかった。(H.K.)
489 29/6/24 /『犬婿入り』 /多和田葉子 /カフェコントレイル(ホテルJALシティ福岡天神)/ 山中光義
* 「献灯使」で多和田葉子の地球全体を包み込むような壮大な視点を感じ、鎖国のように閉ざされた中で格闘している日本の現状について考えさせられた。その感覚を持ったまま「犬婿入り」を読み、30年前に書かれた初期の作品でありながら内容はショッキングでよくわからない。置いてきぼりに感じて思わず読み直す。そうやってじわじわと、この女主人公「北村みつこ」は、多和田葉子そのものではないかと感じ始める。国境、男女間、人間とそれ以外(犬や狐は神の化身?)まであらゆる境目がなく、全てを受容できてしまう存在。何故かその姿はこれほどに異様が付き纏うように描かれている。不思議な作家さんに出会ったものだと私はまだまだ消化できずにいる。 (N. N.)
* 〈ペルソナ〉異なる文化の間に生きる人間たちの所作が、時に息苦しく時に滑稽に感じた。主人公が探し求める「変圧器」がそれを象徴していたと思う。変圧器などどこにも売ってないかもしれないのに。〈犬婿入り〉塾の先生という一見お堅い職業のみつこ先生。犬的に振る舞う男性を落ち着いて受け入れ、性的な事に好奇心旺盛の子どもたちに呑気に反応する姿がとりとめなく色っぽい。両作品とも多和田氏らしい予測できない言葉の繋がりで何とも幻想的だった。(H.K.)
* 独白形式ではないが、この作品を19世紀後半から20世紀前半にかけて一世を風靡した「意識の流れ」の小説として読むと、延々と続く一文の長さ、突然の太郎の出現、乳房には全く愛着が無くストレートな彼の性行為、ニオイに対する変質的固執、他方で、「ティッシュ」の節約的な使い方、庭の草取り、家の掃除、夕食作りなどの有難い太郎の献身等々の日常の全てが、「犬婿入り」の民話を子供たちに語って聴かせる「北村先生」の「無意識の流れ」として面白く追走できるのである。(M. Y.)
488 25/5/24/ 『燕は戻ってこない』 /桐野夏生 /海山亭 /渡邉稔子
* 世の中には、どんなに望んでも、努力しても、叶わないことがある。その究極が命に関わること。生きていることは、何かが欠けていることを受け入れていく過程だと思っていた。登場人物それぞれの気持ちが整理されないまま、物事だけが進んでいく不気味さのなかで、主人公が最後に自分の意思で行動したことに、少し救われた気がした。
定年という通過点を越え、いつも見守ってくれるメンバーの眼差しの暖かさに、人生の続きがますます楽しみになりました。(T. W.)
* 家庭でも学校でも性教育などおよそ無縁の時代に育った世代の人間としては、この本の内容は最初から最後まで殺伐としたものであった。何故ならば、そこには、昔存在した、喜怒哀楽ない混ぜにした性をめぐる想像力の働き(=物語)が皆無だからである。作者の誠意は、ストーリーがあるから歌麿が好きだというりりこの設定であろう。原子爆弾の発明が人類の存続を脅かしているが、「生殖テクノロジー」の進歩が人類の滅亡への道を切り開いて行かないことを願いたい。(M. Y.)
* 読書中に「NHKスペシャル ヒューマン 性の欲望」を観る機会があった。番組で、人は四足歩行から二足歩行になって女性の子宮が小さくなり多産できなくなったので、他の種と違い「発情期」がなく常に愛し合うようになったという。生む自由、生まない自由、セックスをしない自由もあるが、悠久の「性の歴史」を現代人の「自由」で破壊してしまってよいものだろうか。けれど代理母の主人公が本当の「母」になろうとした結末には、燕にも戻ってこないという「自由」があってもよいと思った。(H.K.)
* 日々の生活に疲れた女子同士のさりげない会話が発端で、不安を感じながらも一線を超える代理母に足を踏み入れることになる。佳子叔母に象徴される結婚や出産への憧れが根本にあるものの、悠子やりりこなどともぶつかりながら、リキは様々な性の価値観を受け止めていく。リキがビジネスとして代理母を全うしながら、自問自答を繰り返し、自分に正直で逞しくなる様は爽快で救いでもあった。(N. N.)
* とっこちゃんのコメント「生きていることは、何かが欠けていることを受け入れていく過程」は心に深く染みました。久しぶりに桐野夏生の、生命を縦糸に、格差社会を横糸に、人故のグロテスクさと、それが生む悲しみを抉り出すような物語を堪能しました。必要を超えた願いを実現しようと他者の人格も尊厳も置き去りにする草桶夫妻と、最低限の必要を満たしたいと自らの尊厳を置き去りにするリキ。彼らが目をそらそうとするグロテスクさと表裏一体の悲しみを、はっきりと指摘するのは春画家りりこのみ。リキがぐらを連れて旅立つ最後は、リキの尊厳の取り戻しであり、自分の人生を選び取る出発と映ります。しかし、この物語が同時に問う子の権利とは、は未決のまま。ぐらの魂はどこに?子は親のもの? (H. N.)
* 日本の辺境にいながら、それでいて確かに日本を支えていたとも言える農民、漁民、山の民、馬喰、世間師、女性たち…。特に派手な出来事の話ではなくとも、淡々とした話の中には今や古老になった人々の人生が詰まっている。閉ざされた土地で黙々と日々を送るなか、農作業中には女性陣はなんともおおらかに猥談で盛り上がり、男達は寄り合いで村の大事なことをゆっくりと時間をかけて決めていく。私小説のような語り口で始まる『土佐源氏』では、近代的な行為で富の力を誇示することが性愛の障害になりむしろ前近代的で無為の存在の方が性愛に向いていたことが、粗野な言葉使いの中に現代にも通じる情緒だと感じた。
商家である私の実家は大正5年生まれの祖父が、町から村へと食料品を売る今で言う移動販売から始めた。今では考えられない距離(博多津~箱崎~名島)をリヤカー引いてまわったという祖父の時代の話をもっと聞いておけばよかった。(H.K.)
487 20/4/24/『おはん』/宇野千代/まな板の上の旬 ぽぽぽん/勝野真紀子
久しぶりのゲストとこの春新たな門出を迎え終始にこやかなTさん、時間に左右されることなく自由自在に時間を満喫できる幸せを語る顔が輝いていたのがとても印象的な夜でした。
* 情けないくらい柔弱でだらしのないやさ男(私)自分の身に起こった出来事を独特の語り口で淡々と懴悔のように語られているのがいかにもリアルで巧みである。対照的な二人の女の「情」に絆されながらも、なれるはずもない真人間になることを束の間でも願う語り手(私)が愚かだと誰が言えよう。似たような過ちをいつの世も男と女は懲りずに繰り返し繰り返しおかしながら生きているのではないだろうか。(M. K.)
* 柔和な言葉遣い、行動は優柔不断で煮えきれず、それでいて自分の行動を冷静に分析し顛末を客観的に語る男。そんな男を愛おしく思い通す「おはん」は全く嫌ごとを言わない女。現実に置き換えるとこの行動は違和感が拭えないが、まるで上方歌舞伎の和事を鑑賞しているような世界観。「情」で動くその思いをいかに表現できるか、多くの人を惹きつける何かがここにある。(N. N.)
* タイプは違えどそれぞれに強い女と、優柔不断で弱いことこの上ない語り手の男は、時代を先取りした作家の先見の明か。いや、紫式部の時代からの普遍のリアリティか。「『男のいらんおひとは、どこの国なと行たらええ。あては男がいるのや、男がほしいのや、』とはばかり気ものう言うては寄り添うてくるおかよ」とは、尾崎士郎、梶井基次郎、東郷青児、北原武夫などとの華やかな恋愛模様を描いてきた作者の肉声か。(M. Y.)
* Keysでは二度目の宇野千代。初回作品「色ざんげ」とも共通するのは、「おなごに食わしてもろうてるしがない男」の語り口で物語は進み、男に誠実さは全く感じられないということ。違うのは「おはん」の登場人物たちのねっとりとした言葉づかいで、それがこの物語の本領と感じる。自身の幸福と子どものことを思えば、身勝手な男に恨みごとのひと言でも出ておかしくないところを、夫婦になって一緒にいるよりもなお男からいとしいと思われたであろう「仕合わせ」を文にして伝えるおはん。いじらしく思う男は一生悔やんで過ごすことになる。これこそねっとりとした復習ではないか。派手に泣きわめくよりずっと怖ろしいと思った。(H.K.)
486 3/24/『BLANK PAGE 空っぽを満たす旅』/内田也哉子/千葉敦子
* 長年強い関心を抱いてきた俳優樹木希林を思いがけない角度から眺める機会を得た本であった。演技する彼女と普段の彼女にギャップが無いことも再確認できた。「外国では誰にでも、平然と日本語で語りかけ、同じ人間なら必ず心が通じるという思い込みたるや相当なもの」という一節は、我が亡き母を思い出させた。一時期我が家によく出入りしていたイギリス人がいたが、夕食の席で彼女は躊躇いも無く日本語で色々と話しかけていたものである。「言葉」本来の機能とは何たるかを教えられたものである。 (M. Y.)
* 「母や父という自分の中で大きくなりすぎた存在からの独立の願いも込めて始めた」作者と著名ゲストとの対談。あえて迂回したつもりでも「母の面影」「父の残像」をなぞる自分がいることに作者は気がついている。私自身、亡母の年を越してからより一層、その面影や残像に思いを馳せる瞬間が増えたと実感しつつあるのだった。もちろん我が父母は名も無い市井の人であるが。対談では、養老孟司氏の、人に死ぬ瞬間があるとすればそれは「社会の取り決めにすぎない」の言葉が印象に残る。死そのものが個人的なものとして受け止められたのだった。(H.K.)
* 他に類のない「個」を貫いた表現者であった両親が亡くなり、ぽっかり空いた心の中に、対談相手の様々な表現者の言葉を噛み締めながら、両親の存在に面と向かって対峙し、自分の中に深くあるものを掴み取り、言葉として表に出していきたいという足掻きを感じた。それが魅力となり伝わってくる。それぞれの対談者は、私が初めて知る人もあり、彼女の力がなければこれほど心の深層を吐露しないであろう。石内都や窪田誠一郎など、私がこの本で得た新たな出会い。衝撃なバックボーンに足掻き複雑な思いを持ちつつ淡々と清々しく生きる様、幾つになっても自分はまだまだと思い知らされる。(N. N.)
* 樹木希林と本木雅弘に関心があって手に取ったのだけど、それよりは自分の中にもある空っぽに気付かされることになった本だった。その空っぽの満たし方は本当に人それぞれで、それがその人の生きる姿勢であり、ひいてはその人の最期の迎え方にもつながっていくのかもしれないと感じた。還暦を過ぎ、生活が大きく変わる転機にあって、もう一度自分を見直してみたい、そんな気にさせられた。(A. C.)
485 2/24/『献灯使』/多和田葉子/金城博子
* 東日本大震災直後の風景、放射能汚染で立入禁止となる村や町、東京でさえも子どもの放射能汚染を心配する声が多かった。その記憶が一気に甦る。そこから発想を広げたら「献灯使」の描く世界になるのだろうか。あれから10年以上経過した今、あの恐怖はなんだったのか。人間の営みがもたらす原子力への依存、地球温暖化、無差別殺戮の戦争など次々に馬鹿げた行為が頭をよぎる。なんで止められないのかとうんざり。(N.N.)
* 有吉佐和子の『恍惚の人』(1972)が、「認知症」という言葉をその後を生きる我々の「日常語」として定着させていったように、多和田の『献灯使』(2018)も、近未来の人間社会を予告している怖さを感じさせた。「言葉の寿命はどんどん短くなっていく。、、、古くさいというスタンプを押されて次々消えていく言葉の中には後継者が無い言葉もある。」とか、男の子が女性化し、女の子が男性化する、等々は既に現実化しており、人類消滅の後、人間の影響を受けて文明化したというイヌがクマとの対話で、少年の匂いがする靴を草むらに隠して、匂いを嗅いでエクスタシーに浸っていると言っているが、我が家の犬は女飼い主のスリッパを毎日(それも二、三足)自分の寝ぐらに隠して舐め回している。ロバート・キャンベルとの対談の中で多和田は、「私はものを考える時に、言葉に手伝ってもらうことがあるんです。それは、言葉は私よりずっと長く生きているせいか、私とは比べものにならないくらい知恵があって、私にはとても思いつかないようなアイデアを与えてくれるから。」と言っているが、作品の最初から最後まで、緩みの無い言葉に溢れている。(M. Y.)
* 働き手の中心となる現役世代が、今より2割近く減ると言われている「八かけ社会」の特集記事(2024年1月1日付朝日)で、本作が紹介されていたのだが、読んでみると、東日本大震災に触発された作品という方が腑に落ちる。震災のあの日、東京のはずれにいても支えがなければ立っていられないほどの揺れを感じ、直後の原発事故によって、ゾワリとした世紀末的な感覚が確かにあったことを思い出しもした。人は言葉によって世界観を共有する。だがこの作品に登場する人物たちが繰り出す言葉は、縦横無尽に絡み合い、時には外し合う。それでいて争わず、お互いを静かに受け入れている。今の社会はその逆だ。言葉を理解し合っているようで、目には見えない心の状態を理解する思いやりが欠けている。世界の自国主義を見ていると、この作品で日本がとった「鎖国政策」は今を予見しているようだ。歯医者の場面で老人が「細胞がどのくらい破壊されているか、調べているんですよね。」と言うセリフを通いの歯科の診察台で思い出し、クスリと笑うかもしれないが、、、。(H.K.)
484 21/1/24/『青い壺』/有吉佐和子/広東料理セッション/中竹尚子
*「うまい。うまいこと古色ついたわ。これであんた焼酎につけて床下へ入れとけば、半年で江戸初期というて通りまんねんで」という第1話の道具屋の自慢が、最終第13話での「僕は古美術の鑑定では、日本で一、二といわれている男だよ」という「評論家」氏の「自慢の恥」で結ばれるという見事な仕組みである。「往時の陶工が決して作品に自分の名など彫らなかったように、自分もこれからは作品に刻印するのはやめておこう」という結びの言葉が重い。第9話の同窓会顛末は秀逸。 (M. Y.)
* 一つの青磁の花瓶を巡る評価は全13話で様々。これが登場人物たちの育ちや生き様と相まって面白い。また、そこに隠れている社会問題を、当時としては先端的な観点で、皮肉混じりにさらりと描く。作者にあっぱれと言いたくなる。第一話で、作った本人でさえ、土と炎と釉薬が織りなす偶然の産物であるその青い色に惚れ惚れと感じたほどのもの。どんな青だろう。古色がついていないその姿を私は見たいと思った。(N. N)
* 現代の陶工が創作した優れて美しい青い壺。底に名さえ焼いてあれば、現代の名品として後世に真価が問われ、創作者の技を伝えて知名度を上げ、日本の陶磁の伝統を塗り替えたかもしれない青い壺。しかし、観る目のあるなしにかかわらず、工芸品を売買する人、定年の夫が重荷な人、没落した旧家の医者とその母など、それぞれに昭和を象徴する人々の手で翻弄され、古代の名器の仮面を被せられた壺。壺は偶然を生きる我々そのもの。オムニバス式の視点も、登場人物たちのことばも、ユーモアと皮肉が同居して、有吉佐和子の真骨頂が楽しめた。 (H. N.)
日時:2024年11月
本 :『水のかたち(下)』 宮本 輝著 集英社文庫/Kindle
2023年度
回 /開催日 /本 /著者 /店 /幹事
483 28/12/23/『灯台の響き』/宮本輝/兼平鮮魚店/中島久代
* 2023年納めのKeysには、東京のKさんが帰福、加えて大学の研究室のS先輩も参加、納めの読書会に相応しい、作家と作品をめぐってコメントが飛び交うKeysとなりました。宮本輝の『ドナウの旅人』や『錦繍』と、最近の『田園発 港行き自転車』や『灯台の響き』の違和感をどう捉えるか。遡って、先月の『鍵』の谷崎の文体と棟方志功の版画の組み合わせが与えるインパクトは何か。谷崎、三島の再来平野啓一郎、ノーベル文学賞を取れない村上春樹、この3名の文体とは。異論もあるが、議論が楽しい、Keys原点の夜でした。(H. N.)
* 中華そば屋を朝から晩まで夫婦二人で切り盛りし、全てを知っているはずの妻の急死。引きこもる康平が「神の歴史」から妻の謎「灯台巡りの絵葉書」を手にする。康平は一歩ずつ動き始める。謎解きと自らの灯台巡り、子供や友人など様々な人たちとの関わりが一層深くなり、店を一人で再開する意欲を得る。最後は日御碕灯台の雄大な景色が、神のように人々の前途を照らしている。 (N. N.)
* 40年前に太平洋を縦断する50日間の船旅をした。海上で灯台があることを知るのは夜になってから。日中は空と海の色に混じりその姿に気がつかなかった。そんな灯台のことを「動かず、語らず、感情を表さず、何事にも動じない、…多くの苦労に耐えて生きる無名の人間そのもの」(文庫本p335)と主人公は語る。日が落ちると点灯して航路を照らす灯台のように、足下がおぼつかない人や道に迷っていたりする人に灯りをともす人間に、私もいつかなれるだろうか。(H. K.)
* 1960年(昭和35年)4月の大学入学以来、連日の安保闘争のデモに参加していた日々は、それなりに「新しい生活」の充実感に満たされていた。6月15日、デモに参加していた東大生樺美智子の死は、厳しい一つの現実を私に突きつけた。夏休みに入って、私は「日御碕灯台」に旅した。なぜそこを選んだかは覚えていない。下関の山奥から福岡の地に出てきたことは、私にとっては外界への大きな一歩であった。そしてこの出雲への旅は、第二の大きな一歩であったと言えよう。断崖に打ち寄せる日本海の荒波と空気を切り裂くように舞う無数のウミネコの姿と鳴き声は、人間界とは別個に存在する大きく厳しい自然界があることを教えてくれた気がする。この小説の主人公にとっては「日御碕灯台」は終着点であったが、私には8年後の(アメリカからの帰路)二週間の太平洋横断の船旅の出発点であった気がする。(M. Y)
482 25/11/23/『鍵』/谷崎潤一郎/ホテル日航福岡 カフェレストランSERENA/山中光義
* 夫婦の性的嗜好の異常さを赤裸々に、お互いの日記の盗み見で、より妄想を膨らませ死をも畏れなくなる。暮らしぶりやファッションなどの生活環境は徹底して品がよく、その相対性に魅力が増す。また、主観のみの個人の日記という形に、最後に客観的な視点を入れ、自虐的でコメディ的なオチをつけている。谷崎潤一郎という作家が晩年に書いた作品と考えると凄いとしか言いようがない。(N. N.)
* 挿入された59点の棟方板画について:身体全体の輪郭、眼、鼻、口、乳首、その他のポイントのみを黒く、それによって、横たわる郁子の裸体は純白で尊い「女人菩薩」を思わせる、しかし、他方で、「生れつき体質的に淫蕩であった」ということを匂わす場面では全体が真っ黒で、各ポイントのみが白く光っているように見える。最後の数ページで明かされるように、「夫の死をさえたくらむような心が潜んでいた」彼女は、紛れもなく、19世紀末から20世紀初頭の世紀末芸術・西欧文学において好んで取り上げられたモチーフであるファム・ファタール(仏: femme fatale)、男にとっての「運命の女」(=「男を破滅させる魔性の女」)に属すだろう。人間の中に潜む二局性か、、、。付け加えるならば、新婚旅行の初夜の場面で、眼鏡を外した夫の顔、「アルミニュームのようにツルツルした皮膚」にゾウッと身震いしたとあるが、この場面では、外れた眼鏡だけがポツンと彼女の下腹部に放置されている。棟方の見事なユーモアが表現されており、陰湿になりかねない内容に一服の清涼感を与えている、と感じた。 (M. Y.)
* 京都の旧家に育ったたしなみ深い価値観を持つ一方で、自分中に流れる淫蕩の血に気がついている妻。「読まれることがどれだけわたしをわたしにするのかあなたは知らない」として、盗み読みされていることを知りながら妻は日記を書、その最後で夫の死を企てていた結末が明かされる。そこまで読んで、身体の深いところまで変態的に妻を愛していた夫=世の男性が愛らしく思えて仕方ない。(H.K.)
481 /10/23/『恋ははかない、あるいは、プールの底のステーキ』/川上弘美/休会/渡邊稔子
* 還暦を迎え、社会的にはひとつの区切りをつける時期でありながら、個人的にはこの物語のような、ふわふわした関係性の中で生きています。「結局、中学生が少し複雑になっただけか…」作中のこの台詞が代弁してくれたように感じました。このままでいいと背中を押してもらったようです。 (T. W.)
* 60代で年齢的に近く、久しぶりに会った友だちからコロナ禍での出来事や感じたことを、たっぷり聞かせてもらったような読後感。私たちの年齢では帰国子女は少数派。それぞれの国での日々の生活で、幼いながら「違うという感覚」を鋭敏に感じてしまう。様々な人物が登場するが、年齢が重なることで、さらに生活の事細かな部分で感じ方の違いを自認するようになったり、容認できるようになったりの自問自答を楽しめた。 (N. N.)
* 「古くから堆積した記憶は、おそらく捏造されたり改変されたりしているにもかかわらず、なんと強固に記憶の中にとどまり続けているのかと、あっけにとられるところもあった。」という一節があるが、私の場合もその通りで、それらが殆ど毎晩みる夢の中で展開し、齢(よわい)80を過ぎて益々盛んになってくるので退屈しない。終末の床にあってもきっとそうであろうと想像し、楽しく最後を迎えられるだろうと思っている。 (M. Y.)
480 /9/23/「52ヘルツのクジラたち」/町田そのこ/休会/末信みゆき
(幹事より)本を通して、毒親の存在をリアルに体感しました。逃げ場のない子どもたちを親から引き離すことができたとしても、それで幸せになれる訳ではなく、心の傷は消えないのだろうと思うと辛いです。
* 親の愛情の遮断、様々な形の虐待から絶望的な「孤独」を抱える登場人物たちの、奇跡的な出会いによる成長の兆しが見えたところで物語が終わった。途中、読むのも辛い内容でしたが…。現状、「子どもをちゃんと見ていない」ことで様々な事件が報じられている。「信じられない。どうして」という思いで胸が痛むばかりである。小説の人物たちは遮断された環境ゆえに死と隣り合わせで生きている。その感情の繊細な浮き沈みがリアルに表現され、説得力がありました。(N.N.)
* 子どもへの虐待、ヤングケアラー、恋人のDVと様々な問題に面した主人公の女性は、自分の声は、誰にも届かない「52ヘルツの声」だと言う。果たしてそうであろうか。「愛の反対は憎しみではなく無関心」と言ったのはマザー・テレサだが、愛を欲していた主人公は、ずっと無関心に晒されているわけではなかった。居場所を探して会いに来てくれた友人や、移住した田舎で知り合った地元の男性などがよい感じに関わってくれていることで救われている。気になったのはようやく探し当てた祖母。「孫」について適切な判断をできる人が、その昔に自分の娘をただ置いて家を出る判断をするだろうか。そうしたかどうかで物語の事情が変わってくる人物なだけに、最後に疑問を感じてしまった。(H.K.)
* 主人公がある時期育った場所として「北九州市小倉北区馬借」という地名が出てくるが、これは実際の地名(郵便番号802-0077)で、小倉城下町の町名に由来するそうであるから、生々しい。先月、唐津の元九大生(19歳)が両親をナイフで殺害した裁判で、佐賀地裁は懲役24年の判決を言い渡した。事件の背景には、「毒親」による教育虐待への報復があった。小説の内容も現実の事件も等しく絶句するほどのものであった。一連の事柄が、虐待を積み重ねた「自然」からの報復であると、最近のKeysの本に繋がる確信とも言える想いを抱いた。 (M. Y.)
479 /8/23/『デジタル・ファシズム』/堤 未果/休会/勝野真紀子
(幹事より)前々から手に取ることを何かしら自分の中で躊躇っていた本であったが、前回「本心」(平野啓一郎著)にインスパイアされ、聞こえの良い「デジタル化」へ猛進している世の中とは一体何なのか?その側面でも知れたらと思い選びました。
文部科学省が公式ウェブサイトに2050年までの実現目標として公開している「ムーンショット計画」や内閣府が掲げる「ソサエティ5.0」
政府のHPを見ても何のことだかさっぱり、、、そこでイラスト化された人類のモデルには今こうして日常を暮らしている感情を伴った我々の姿が見えず不思議なくらい共感を持てない。コロナ禍を経て、身の回りでも本当にいろんなことが一気に変わっていった。まさにデジタルの蔓延、当然人間同士のあるべき「摩擦」を「面倒だ」と考える社会が一番来てはいけない「教育の現場」にも既に到来しているのを感じる。国家や政治、経済やGAFAを含めて、強大なシステムが最早個人の理解と行動をはるかに超えてしまった世界に違和感ばかり唱えていても仕方がないが、「我々は人間、太古の昔からヒトである」という実感を我々が持ち続けることがこの「巨大システム」へのささやかな反抗にならないかと考えている。
* 政府の「ソサエティ5.0」政策の中、パンデミックで日本の技術力やデジタル環境の脆弱性を嫌と言うほど思い知らされた。今やデジタル化(DX)、技術革新を進めていくのはやめられない。一方で、裏にある資本家やGAFAなどの投資の流れ、中国が進める監視社会の罠など客観状況を認識しておくことは重要。個人情報のダダ漏れや教育での個人評価の積み上げは決して許してはいけない。それこそ政府や投資家を監視できる目が必要。現在、「タイパ」という言葉をよく耳にする、まさに「モモ」で描かれた時間泥棒に汚染されている昨今。大事なものを見失わないよう教えてくれた一冊だった。(N.N.)
* 世界中の政治、経済、金融、教育等々の隅々まで深く浸透してきている「デジタル・ファシズム」の詳細を掘り起こしている本書には敬意を惜しまないが、人間がこの先歩める解決の道が、著者の「和光小学校」的な方法しか提示できないとしたら無念である。産業革命を境に工業化の道をまっしぐらに進んで今日の’EdTech’があり、それは人類滅亡の必然的な姿であろう。BBC放送の「グリーンプラネット」などを観ても、植物には極悪な環境をもサバイバルしてゆく知恵と能力が備わっているのに対して、「進歩」の名の下に自然を捨てていった人類の当然の帰結のように思えるのである。 (M. Y.)
* 「だが本当にそうだろうか」「思い出してほしい」と、本書の中で筆者は何度も問いかける。デジタルのおかげで、遠隔で人と会って話すことができ、好きな音楽や映画を好きな時に楽しみ、欲しい物がクリック1つで手に入る世界から、もう我々は元に戻れないのに。知らされてなかったデジタル化政策の指摘は参考になったが、デジタルが諸悪の根源のような思考には同意しかねるし、「手間ひまかける」ことの素晴らしさとかで解決できる話ではない気がする。デジタル社会は決して平等ではなく万能でもないこと、便利さを提供しているのが私企業である構造を忘れてはならない。その上で、問題の本質は結局、個々の人間にかかってくることを学んだ1冊だった。(H.K.)
478 29/7/23/『本心』/平野啓一郎/サケサカナ太郎坊/千葉敦子
(幹事より) VF、仮想空間、自由死等々、今の私たちにはリアリティーを感じえないものですが、それが普通に受け入れられる世の中が果たしてやってくるのでしょうか?不安を語りつつ、生の水ナスの美味しさを肴に楽しいひとときを過ごしました。
* 私は人生の折々の決断の時には、「死ぬ時に後悔するかしないか」を選択の基準としてきたので、「あの時、もし跳べたなら」という悔いは無く、「死の一瞬前」をあるがままに受け入れることができるのではと期待している。残るは、「最愛の人の他者性と向き合う誠実さ、優しさ」をテーマに、残された人生を全うできるかどうかだろう。 (M. Y.)
* まさに巧妙な時代設定。20年後に起きていること、A Iの凌駕、超高齢社会(そこに「自由死」というショッキングな選択肢)、格差や分断、人工授精(生まれた子どもの悩み)など、今私が不安を感じている問題を具体的に炙り出してくれている。(そう遠くないから恐ろしい) 登場人物たちの日々の生活の中で感じる繊細な感情の浮き沈みを、実に丁寧に表現できてしまう平野啓一郎の感情の豊かさと語彙の力は圧巻でした。そして私が救われたのは、主人公など苦しんでいる青年たちの再生、これから生きようとする力を描いてくれたことに感謝。私も若い子どもたちの生きる力を信じるのみ。(N. N.)
* 近い将来こういう世の中が本当に現実となっていくのであろうか、、、ヘッドセットを装着すれば、時間や空間をも越えた「死後さえも消滅しない」未来を誰もが手に入れられる世界。近未来の仮想社会を想像することは容易ではないが、背景には「死の自己決定」や「貧困による格差社会」といった現実社会で直面している様々な問題を容赦なく突きつけられており、あくまでも現在と地続きな世界にある近未来であることは確かかもしれない。「分人」という著者の観点から読めば、関わっていく人々の変化に伴い主人公の中で占めていく分人に変化が生じていくことが一筋の光というか、やはり生身の人間との関わりの中で未来をどう切り開いていくか、、、そんなことを考えさせられた一冊でした。(M. K.)
* あらゆる想定が「仮想現実」として可能になる時代にあって、表題にある「本心」とはどういうことかを考えました。自分でこれが自分の本心だと思っていたことも、強制的な刷り込みではないか。他者との関係に依存したかもしれない。状況が変われば心も変わるのではないだろうか。全くもって「本心」は影響を受けやすく不確かなものだけれど、その心が決める「自由死」について同意できたら、「最愛の人の他者性」を受け入れたことになるのかなと思いました。(H.K.)
477 24/6/23 /『愛するよりも愛されたい 令和言葉・奈良弁で訳した万葉集』/ 佐々木良/ 一 はじめ/ 中島久代
(幹事より)
しばらく音沙汰がないと病気されたのでは、と気にかかります。対馬の穴子を肴に、そういう年代にkeysのメンバーがなったことを実感した会でした。
* 4,500以上の歌の一部ではあるが、全て感情表現がストレートでとてもわかりやすい。自らの恋しいレベルを「死」に例える歌が多いのに艶歌の原形を見るようである。また、当時の生活感が生々しく伝わる歌が多く、覗き見をしているような気持ちにさせるのは、現代語訳のおかげかしら。(N. N.)
* いくら「意訳」と言えども、「恋ふること 慰めかねて 出でて行けば 山を川をも 知らず来にけり」を「え? ここどこ?」はないでしょう。わたしだったら「恋心治まりかねてふらふらと野越え山越え妹(いも)は何処(いずこ)に」とでも。(M. Y.)
* 「あをによし 奈良の都は 咲く花の 薫ふがごとく 今盛りなり」は、小野老が遠い赴任先、地の果てとも思えた太宰府から奈良に戻り、ますます栄え賑やかで、行き交う人々も幸せそうで、この世の栄華を極める奈良の都へ、その地にいた誇りと今いる太宰府の侘しさと、一瞬の内に去来するないまぜの想いを読んだと思っていました。「アツい!」ではちょっと残念かな、と。万葉集という我がネイションが誇ることばの文化が、私には読めない原文より遥か遠くに去った感です。しかし他方で、スコットランド詩人ロバート・バーンズのキルマーノック版作品集を佐賀弁で全訳された翻訳者の執念の遊び心に似たものも感じました。(H. N.)
* 現代の若者が使っているという”w”や”#”の意味を今ひとつ理解していないことを差し引いても、やはり腑に落ちないまま読み終わりました。たとえ恋の歌であろうと、韻を踏んだり美しい枕詞や比喩を盛り込むことを通して、己の表現力を見せつけたいという知的欲が万葉歌人たちにはあったと想像します。この現代語訳にはそれが感じられませんでした。ただ、まろやかな関西弁の奈良弁はいいなと思いました。(H.K.)
476 21/5/23 /『銀河鉄道の父』/ 門井慶喜 /喜友/ 中竹尚子
* 今回「父」というフィルターを通しながら語られる「賢治」と家族の物語。妹「トシ」とのエピソードや没後その作品が認知された不遇の作家、という正直これまで私が抱いていた「賢治」像とは、はるかにかけ離れていて意外でもあったが、物語の随所に「賢治」という人物の片鱗が散りばめられており、最後まで興味が絶えなかった。Keysでも話題にあがった石集めに没頭する賢治「石っこ賢さん」の章、なるほど花巻の自然こそが彼の瑞々しい言語感覚と想像力を磨き、自然との交感を彼独特の表現によって後世に残すことになったのかも、、、なんて想像するのも実に楽しかった。(M.K.)
* 父親として、子への揺れ動く心情、看病時の溢れる愛情、進学を進めてしまう知性や教養への憧れ、これらは当時の財を成して家族を養うことを一義とする世間的な父親像との葛藤でもあった。その葛藤の先に、賢治やトシは類稀な才能を開花できた。(トシが長く生きていればと惜しまれます。)短命であったが宮沢賢治は、北上川の豊富な自然(石)や小学校の八木先生との出会い、妹トシと一緒に過ごした日々など、子供の頃に思う存分できたからこそ、童話や詩を後世に残すことができたのでは。と、親稼業は面白いと感じさせてくれました♪♪ (N.N.)
* 「これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。」これは宮沢賢治が書いた「注文の多い料理店」の序文で忘れられない一文だ。いつもの見なれた景色でも、賢治にはまるで宝石のように光って見え、その色や輝きを書かずにはいられなかった。賢治自身がもっている精霊のような純粋さと宗教的な背景が重なりながら賢治の詩や童話が生まれたのだと思う。そして、それらがきちんとした作品として世に出ることができたのは、粘り強く支援した父の存在が大きかったことをこの作品で知ることができた。(H.K.)
* Keysランチ会では「石っこ賢さん」を話題にして、子供時代の自然との触れ合いの中での「天然の想像力」が、やがて「ことばの人造宝石を作り上げ、賢治は詩人として、いや人間として、遺憾なき自立を果たした」ことを語り合ったが、一般の人間にとって、大人になるということはこの「天然の想像力」を失うことであるということを忘れまい。銀河鉄道の父親がわれわれに代わって、それを失う葛藤を見事に演じてくれたと思う。(M. Y.)
475 23/4/23/『芽むしり仔撃ち』/大江健三郎/Zoom/金城博子
* 大江健三郎氏二十代の作品とのこと。なんと冷徹で客観的な描写。心深くに突き刺さる不快感。場面は戦時中だが現代社会の人間性に潜むものが描かれている。感化院の子どもたち、疫病、朝鮮人、脱走軍人に対する恐ろしいほどの村人たちの閉鎖性、虐待、暴力。僕や弟、李、女の子に芽生える人間性に対する救いを悉く打ち砕いて小説は終わる。この小説は決して映像で観たくない。しかし、感性をより鋭敏にしなければ、このような惨状に加担してしまう可能性があるという恐怖も私は感じた。(N.N.)
* 読み始めた途端に懐かしい文体の香りが漂ってきた。今回の本は1958年に書かれているが、大学入学時(60年)の安保闘争から3年後の『性的人間』、その後長く続いた大学紛争時の『万延元年のフットボール』(67年)等々、大江は、政治的人間と性的人間の在り方を絶えず突き付ける存在であった。男女を問わず、その性器を「セクス」と表現し、人間が呼吸することと同次元に配置する発想は、その後の軟弱な小説群とは一線を画すものであることが、あらためて新鮮であった。(M.Y.)
* 極限状態におかれたら、人間は助け合うことではなく、排除し合うことを選んでしまうのか。感染症と閉鎖された村社会の中で、感化院の少年たち、脱走兵、村の大人たち、それぞれが見せる狡さや醜さは、異常な時代を生き抜くための術か。見捨てる者と見捨てられる者の立場が逆転すれば、人間は同じことをするのか。怒りと恐怖がもたらす緊張した場面が多かったが、つかの間の自由と幼い愛の目覚めの場面は美しく清らかで、大江文学の偉大さを感じた。(H.K.)
474/18/3/23/『私の恋人』/上田岳弘/月のしずく天神大丸店/末信みゆき
* 作家の世界観の大きさに圧倒されます。面白かったのは、二周目のイデオロギー間(アメリカとドイツ)の闘争、その終焉がユダヤ人収容所や日本への原爆投下。そして三周目、人類を凌駕する「彼ら(人口知能)」の出現。でも、その前に我々が突きつけられている現実、ロシアによる領土侵攻がある。闘う対象は誰にもわからないが、抗うべき時には抗わないといけない。そのように突きつけられた作品でした。(N. N.)
* クロマニョン人まで遡って人類の祖先の知性がどのようであったのかということは想像も及ばないが、私が目撃した中で最も古いアイルランドの先史時代の遺跡「ニューグレンジ」(紀元前3100年から紀元前2900年の間に建設)、「1年で最も日が短い冬至の明け方、太陽光が長い羨道に真っ直ぐ入射し、部屋の床を短時間だけ照らすように建設されている」、その数学的知性と言い、下って、古代エジプトのツタンカーメンと黄金のマスク(紀元前1341年頃 – 紀元前1323年頃)、イングランドのストーンヘンジ(紀元前2500年から紀元前2000年)等々、古代人の知能の高さには驚嘆するばかりである。いや、身近にもある。王墓など弥生時代(紀元前9、8世紀から紀元後3世紀ごろ)の遺跡が発掘されて展示されている「やよいの風公園」が毎日の犬との散歩コースであるが、人間より1,000倍〜10,000倍優れていると言われる犬の嗅覚、聴覚は、人間がその合理主義から失っていった本能的能力をクロマニョン人時代のまま持ち続けているという証拠であろう。滅亡の予言の中に救済の光を見出せない中、せめてそばにいる犬に寄り添って、少しでも原始の想像力を取り戻したいという気持ちであった。(M. Y.)
473/25/2/23/『ライオンのおやつ』/小川糸/米と葡萄 信玄/渡邊稔子
* 雫がレモン島に来て一月超の短い間、様々な出会いにより死と生に向き合い、揺れながら強くなっていく様が心に沁みました。死に際はマドンナのような方にそばにいてほしいですね。日曜日午後三時のおやつ、自分は何を求めるのか考えてしまいました。(N. N.)
* それまで生きてきた日々を振り返り、穏やかに日々を過ごす。最期の時を考えるのは、つまり今をどう生きるかなのでしょう。レモン島に行けなくても、自分にとってのライオンの家を見つけたいと思いました。最期のおやつは、ぜんざいをリクエストします。ことこと小豆の煮えるにおいが、幼い頃の大きな幸せでした。(T. W.)
* 私の生涯で最後に食べたいおやつは「ぐすぐす焼き」。小麦粉を水と砂糖で練って、生卵を1つ割り入れ、卵焼器で転がしただけの、素朴なおやつ。精神的に弱かった母が調子のいい時、しかも飼っている鶏が卵を産んだ時に作ってくれた。「ぐすぐす焼き」は滅多になかった母のゆとりのある笑顔に繋がっている。(H.N.)
* テレビドラマの舞台は別の場所だったようですが、最近カクテルに凝っていて、「瀬戸内海の西方、穏やかな自然に育まれた希望の島『中島』」産のライムを取り寄せて遊んでいることから、作品の舞台をその島と想像して読みました。主人公がタヒチ君を訪ねた最初の方の場面で、六花と一緒にごろんと横になって葡萄畑の向こうの海を眺めている。「どこからか、爽やかな柑橘の香りもする。」「目を閉じると、そよ風が、私に毛布をかけるような優しさで吹いてくる。」このような美しい文章で全編が紡がれていて、生命の尊さを慈しむ作者の眼差しに打たれました。(私の「最後に食べたいおやつ」は「バナナ」。昭和23年、重い病気で小学1年間を全休した私は、当時はとても高価で手に入らないようなバナナを、「精がつく」からと親が買ってきてくれて、以来今日まで、「バナナ」こそ最高の果物になっています。)(M. Y.)
* 読んことがある本を再読すると、前回とは違う思いになることはよく経験します。前回は、読みながら緩和ケアで見送った母の姿がよみがえりました。今回は、1人ひとりのおやつの描写をじっくり楽しむことができました。そして私なら何にするかなと今から考えています。(H.K.)
472/21/1/23/『あちらにいる鬼』/井上荒野/暖(はる)/勝野真紀子
久しぶりのリアルKeysならではの会話の醍醐味、嬉しい時間でした。
* 目の前のぶらぶらするものを眺めながら、髪を落とす前の最後の洗髪をしてもらうという場面には感動しました。この一節があるだけで、この作品は見事であったと評価したいと思います。(MY)
* じわりじわり真綿でがんじがらめにされているようで、ともすると、息苦しささえ感じてしまう昨今。人間はどうしようもなく不完全な生き物だという思いが年々増してくるのは何故だろう。人間は完璧になんてなれやしないのだ。そう思えばこそ、合わせ鏡のような「みはる」と「笙子」のどうしようもなくやりきれない情念、業の深さ、、、を作者のやわらかな文章の奥に感じたとき、倫理観云々ではない静かな読後感が印象的でした。(MK)
* 小説家は、命を削りながら書いているのだと感じました。読む前は、さぞ男と女のドロドロを描いているものと思っていました。実際は、篤郎とみはる、笙子の共通した意識、プライドの根拠である、小説、また自分自身に対する誠実さでした。(NN)
* ともすれば、スキャンダルにまみれた存在、出家しても切れない腐れ縁、腐れ縁を静かに受け入れた妻たるものの鏡、と受け取られかねない、みはると白木、白木と笙子の3人の関係を、作者はままならない時はあったとしても、この世に出会う定めの人、愛する定めの異性はいる、ということを人生の幸運として感謝する、テーマに仕立てている、と思いました。この視点は、作家として至った3人の関係への理解なのか、当事者たちの家族としての鎮魂なのか、その真意も知りたいとも思いました。(HN)
* 寂聴さんは「書いていいですよ。何でも喋るから!」と言ってくれたのだと、著者井上荒野さんのインタビュー記事を読んで、合点がいきました。本は二人の女性の視点で描かれていましたが、瀬戸内寂聴から聞いて描いた「みはる」よりも、亡くなってこの世にいない母を思い描いた「笙子」の感情の方が真に迫ってくると感じたからです。事実以上の真実があぶり出された小説だったと思いました。(HK)
1983年度
回 開催日 本 著者 店 幹事
3 17/12/83 夏 中村真一郎 OL55 上野理子
予想通り、裏ビデオの彼氏現る。
2 19/11/83 色ざんげ 宇野千代 てん定 吉積博子
サロンの名前、‘KEYS’と決まる。ズイキ→キイズ→KEYS(各人の鍵)
1 29/10/83 陽暉楼 宮尾登美子 あじ蔵 中島久代
「トクトク」と流れ出る酒の音、「チャリン」となる蚊帳の落ちる音、--杉山氏、大いに語る。
1984年度
回 開催日 本 著者 店 幹事
15 12/12/84 偸盗・地獄変 芥川龍之介 御用 吉積博子
デコさん、婚約が決まり、上気した雰囲気。
14 17/11/84 第二の性(二) ボーヴォワール 松の家 中島久代
“Folk magic is active luxury.”人の交わりは、全てこれ魔術的。
13 13/10/84 リツ子・その愛 壇 一雄 春信 杉山隆一
今回で第一ラウンド終了。満一年も経ったことになる。次からはどのような二年目に。
12 22/9/84 光抱く友よ 高樹のぶ子 祇園 小出石敦子
汽車にゆられて、心踊る気持ちではるばる北九州まで出かけたは、このような楽しみあればこそ。
11 28/8/84 行人 夏目漱石 麦めしやひょうたん 山中光義
デコさん、また、遠方より来る。そして今日は泊まらず。次回は北九州。全員勇んで出かけよう。
10 24/7/84 みだれ髪 与謝野晶子 魚村 上野理子
「みだれ髪からみまとひしときすぎて 鏡のぞく君つややかと言ふ」
9 17/6/84 考えるヒント 小林秀雄 浜太郎 南 尚子
(太宰府)裏手の茶屋で読書会。梅ガエモチ、ラムネ。
8 26/5/84 枯木灘 中上健次 てん定 吉積博子
夕刻4時、箱崎宮集合、茶店が閉まる5時まで30分の語らい。
7 28/4/84 痴人の愛 谷崎潤一郎 ロビンフッド 中島久代
燃えるような知性と感性、それをしっとりと包み込んで、武蔵寺での第一回は始まった。
6 25/3/84 蒲団 田山花袋 つくしみ山荘 杉山隆一
久住登山は快晴にめぐまれ、残雪の中、素晴らしかった。
5 11/2/84 虞美人草 夏目漱石 萩の宮山荘 南 尚子
デコさん、会社勤務が始まって参加できず。水曜日休日で今後なかなか難しいか。
4 21/1/84 世界の性革命紀行 上前淳一郎 志賀島荘 山中光義
デコさんのアパートになだれ込む勢い、誰の所為・・・?
1985年度
回 開催日 本 著者 店 幹事
27 20/12/85 食卓のない家 円地文子 香津 中島久代
風邪でダウンした人が数人、結果として加瀬さんの登場となり、千八のマスターの人情を見る。
26 30/11/85 アンナ・カレーニナ トルストイ 魚村 南 尚子
胸中の本音をぶつけ合わずして、アンナは理解できまい。
25 19/10/85 雁 森 鴎外 いろはにほへと 杉山隆一
田中由香里さんの正式参加により、KEYS盛り返すか。
24 21/9/85 破戒 島崎藤村 香津 山中光義
井上ひろしを追悼し、今宵限りの“雨に咲く花” を。
23 30/8/85 漱石の思い出 夏目鏡子 志久和別館 上野理子
久々にお客を迎える。男と女の最善は自由恋愛か・・・。
22 17/7/85 漱石の心的世界 土井健郎 豊年万作 吉積博子
吉積氏、青年の船合格。オメデトウ。
21 22/6/85 歎異抄 親鸞 万潮 中島久代
屋台のラーメンは久しぶり。豊かなれ人間関係、純なれ人の心。
20 23/5/85 足摺岬・他5編 田宮虎彦 二升瓶 杉山隆一
「本能」と「理性」、この禅問答に喝采。デコさんとの別れの寂しさは言うまい。
19 20-21/4/85 萩原朔太郎詩集 萩原朔太郎 蘭風別館 山中光義
「田口楼」廃業は残念。秘宝に何を感じたか、誰も語らず。
18 20/3/85 金閣寺 三島由紀夫 ひょうたん 南 尚子
二時間遅れて、かけつける。杉山氏上機嫌。貝ガラ遊び。
17 23/2/85 白痴・他 坂口安吾 魚源 松尾宣子
酒に酔われるのは、人生が虚しいからか?術なきこと。
16 12/1/85 放浪記 林 芙美子 唐津屋 上野理子
中村律子さんクイーン位獲得のニュース、感動大なるものあり。
1986年度
回 開催日 本 著者 店 幹事
39 15/12/86 にせドンファン 吉行淳之介 時雨茶屋 南 尚子
好青年、原さんの登場。今更ながらに男女の心のもつれをみる。
38 29-30/11/86 夜ごとの揺り籠、舟、あるいは戦場 森 瑤子 湯布院温泉 杉山隆一
ハイキングとロッククライミング。温泉と由布岳と快晴に感謝。
37 31/10/86 洒落た関係 青木雨彦 千代の海 山中光義
4年目を迎えて、Mr.杉山の勢力地図は拡大の一路をたどる。
36 26/9/86 城の崎にて 志賀直哉 いろはにほへと 田中由香里
「絶対的なもの」について、険悪なシーンあり。
35 29/8/86 人間失格 太宰 治 ひぐち 加瀬隆久
久々に夜明けの空を仰いでの帰宅。一旦患うと治りにくい病である。
34 25/7/86 魚河岸物語 森田誠吾 どん底 吉積博子
世に卑怯と義憤というものあり。スポーツの世界もしかり。
33 27/6/86 個人的な体験 大江健三郎 香津 中島久代
ついに理子も結婚。結婚をめぐる話題のなかで、皆は何を考える。
32 30/5/86 春の鐘 立原正秋 松香堂 南 尚子
酒井さんと仏像との関わりは何か。「春の鐘」をめぐって、男性の身勝手さに非難轟々。
31 26/4/86 からゆきさん 森崎和江 万潮 山中光義
会の直前に見た映画「家宅の人」に話題集中。
30 22/3/86 山棲みの記 小倉アイ子 のんべえ 杉山隆一
”それぞれの言葉二つ:
「人生をあるがままにいきることを発見した」(吉積)
「全ての人が心から可愛く、“よしよし”と言ってあげたくなる」(山中)”
29 28/2/86 知と愛 ヘルマン・ヘッセ 赤ちょうちん 田中由香里
先月、青年の船に乗って太平洋へと漕ぎ出した吉積さんは、今いずこの空の下。
28 10/1/86 エベレストを越えて 植村直美 十徳や 吉積博子
美しさに磨きのかかったデコさんとの再会。彼女の持つふんわりとした暖かさは変わらず。
1987年度
回 開催日 本 著者 店 幹事
51 26/12/87 夜のグラフィティ 村松友視 梶 吉積博子
年の暮れに女が女をいじめる構図、決着は新年三日につけられた。
50 14/11/87 幸福の限界 石川達三 大阪屋 杉山隆一
金本さん段上さん登場して、「地獄の中に天国を築く」?
49 17/10/87 恋文 連城紀彦 芝 山中光義
マーボ豆腐をめぐる中竹夫妻の新生活と杉山先生のシャンペン待機。
48 22/9/87 夜と霧-ドイツ強制収容所の体験記録 V・E・フランクル 薩摩ぢどり 加瀬隆久
シワは人生の年輪!
47 29/8/87 宇宙からの帰還 立花 隆 玄 田中由香里
わたしの色気に気付かない愚かな男よ。
46 28/7/87 カンガルー日和 村上春樹 福○内 吉積博子
「尚さんとよんでほしい」
45 27/6/87 金色夜叉 尾崎紅葉 香津 中島久代
田中さんの同僚の先生方とエール交換。加瀬さん優位。
44 30/5/87 其面影 二葉亭四迷 奈々寿 杉山隆一
酒井さんの熱のこもった漫画談義をひとしきり。
43 25/4/87 暗室 吉行淳之介 いわさ 山中光義
よっちゃんの涙に酔うバカな男をふりきって新しいスタート。
42 27/3/87 春の雪-豊饒の海1 三島由紀夫 繁天 酒井三千穂
杉山先生のご退院を祝ってジュースで乾杯。
41 27/2/87 チャタレイ夫人の恋人 D・H・ロレンス 藤吉 吉積博子
降りしきる雪の夕暮れ、男二人の汲みかわす酒、義理と人情。
40 23/1/87 源氏物語 第1巻 円地文子訳 香津 中島久代
山中先生の顔は女性が相談をつい持ちかけたくなる。
1988年度
回 開催日 本 著者 店 幹事
63 21/12/88 ドナウの旅人 宮本 輝 香津 山中光義
旅にしあれば、人も時代も店も流々転々、ドナウ川ではないけれど。
62 22/11/88 錦繍 宮本 輝 吉田 吉積博子
これやこの行くも帰るも・・・原田さん登場、男と女の話再燃の気配。
61 15/10/88 輪舞 瀬戸内晴美 おおいし 中島久代
懐かしの学校給食鯨肉、時は移りオノミ一切れ七百円也。
60 24/9/88 韓国・朝鮮人-「在日」の生活の中で 前川恵司 甚六 金本由香里
KEYS満5年。よく続きました。
59 27/8/88 美藝公 筒井康隆 松竹五右衛門 段上宮子
豊永さん参加、女に涙をしぼらせる名ホスト山中先生の秘術。
58 23/7/88 敦煌 井上 靖 香津 酒井三千穂
藤井さん登場、ツルビア姫の野性的魅力に男性陣は無言の一致。
57 18/6/88 死の棘 島尾敏雄 竹茂 杉山隆一
福高魂ここにもあり、先輩かつ恩師の小山先生と愉快な一時。
56 28/5/88 テニスコート 曽野綾子 千鳥屋 山中光義
海上タクシーと壇一雄の歌碑、草いきれと澄み渡る空の能古の島。
55 23/4/88 十二人の手紙 井上ひさし 福重 末信みゆき
プーさんのサファリルックに話題騒然、何が彼女を変えさせる?
54 26/3/88 自動車絶望工場 鎌田 慧 赤手ぬぐい 加瀬隆久
突然の中年女性の参加を快く迎えてくれたメンバーに感謝。
53 20/2/88 乳房再建 千葉敦子 松三屋 田中由香里
揺れ動く女心に、真冬の小雨まじりの雪模様。
52 23/1/88 乳ガンなんかに負けられない 千葉敦子 あじ宝楽 中島久代
強い女は友達で恋人にはしたくない、現代の男性は摩訶不思議。